第65話 天使と疑念
療養室の扉が静かに閉じられる。
ゼフィルは、白い寝具に包まれて横たわっていた。頬にまだわずかに熱の残る顔に、薄く影がさす。
「ゼフィル、話せるか?」
カイネルが問いかけると、ゼフィルはゆっくりと目を開け、小さくうなずいた。
「……まだ、長くは話せませんが」
「無理はしないでください」
フィリオが低く言い添えると、ゼフィルはわずかに微笑んだ。
「ありがとう……でも、少しは……思い出せるかもしれません」
ゼフィルは、体をかすかに起こすようにして、目を閉じる。
襲撃された夜の記憶を、慎重にたどるように。
「……気配を、感じたんです。術式に反応する気流の揺らぎと……焦げた香のような、微かな匂い」
カイネルが目を細めた。
「気流と香気……」
「暗殺専門の術式部隊だ。おそらく、“夜帳の魔煙”だろう」
そう呟いた彼の口調に、わずかに警戒が混じる。
「姿は……?」
フィリオの問いに、ゼフィルはかすかに首を横に振った。
「まったく……見えなかったんです。けれど……声だけ、聞こえました」
その瞬間、室内の空気が凍る。
「……“これで帳消しだ”って」
「……帳消し、だと?」
カイネルが低く唸った。
「それが、どういう意味なのか、わかりますか?」
フィリオが問いかける。
ゼフィルはほんの一瞬、迷うように視線を伏せた。
「……わかりません。ただ……昔、私が“ある命”を受けたときに、王からこう言われたのを思い出しました。報いを残すなと」
ゼフィルは淡々とした声音のまま、うっすらと目を閉じた。
カイネルが腕を組んで言う。
「それは、襲撃対象に証言者や逃げ道を残すなという意味か」
「……たぶん、そうです」
その一言に、場の空気が一段と冷え込む。
「つまり、今回の失踪事件も、王妃派の諜報部が関与している可能性が高い……。ゼフィル殿が襲われたのも、偶然ではなかった」
フィリオが低く呟くと、カイネルはすぐさま立ち上がった。
「この証言、すぐに梟に伝える。状況が悪化する前に手を打つ」
そう言い残し、二人は静かに療養室を後にした。
* * * * * *
療養室を出たカイネルとフィリオは、すぐに情報中枢へと足を運んだ。
道中、既に警戒を強める兵たちの姿が見える。
「……ゼフィルの証言、確かに受け取った」
簡潔に報告を受けた仮面の梟は、眉間にしわを寄せながらも冷静だった。
「“報いを残すな”か。つまり、王妃派は失踪者を処理している可能性が高い……」
「襲撃は、ゼフィル殿が任務で接触した相手がいた村でも起こっている。
襲われたのは、王妃派から離反した貴族の使用人筋や、魔導省との繋がりがあった者たちだ」
フィリオが示した報告書を、仮面の梟は黙って見つめた。
「……標的の選別に、ゼフィルの過去の任務が反映されている?」
「否定できません。ただ、それならば今後も過去にゼフィル殿が関与した地域が危ないかと」
カイネルが口を挟む。
「革命軍の中に情報を流している者がいると考えた方がいい。でなければ、あそこまで正確に動けるはずがない」
沈黙が落ちた。
その重さの中、仮面の梟は静かに口を開いた。
「動くぞ。防諜班を中心に、内部の洗い出しを始めろ。怪しい動きがあれば即報告だ」
「了解」
「それと、ゼフィル殿には今後の調査に協力してもらうよう、準備を」
カイネルとフィリオがうなずき、部屋を後にする。
……革命軍の心臓部で、静かに、不穏な影が根を張ろうとしていた。
* * * * * *
革命軍に“裏切り者”が潜んでいる可能性あり——。
そう伝令がもたらされてから、ずっと胸の奥がざわついている。
最も怪しいのは——乙女ゲーム『薔薇と鏡の王国』の中で王妃のスパイだった、あの彼。
ゼフィル。
ゲームでは、王の遣いとして革命軍の拠点に現れたゼフィルが、
その天使のような微笑みと物腰で、次第に皆の信頼を勝ち取っていった。
けれど、ある事件を境に“裏切り者”だったことが明かされる。
まるで虫も殺せなさそうな顔で、仲間を騙し、壊した彼を見たときの衝撃は——
今も記憶に焼き付いている。
……でも。
あのとき、朦朧としながら私を呼んだゼフィルの声は。
「ハルカ様」と、優しく名前を呼んでくれた微笑みは。
あれは演技だったの?
それとも、今この世界にいる彼は、ゲームとは違う存在なの?
信じたい。でも、信じることが怖い。
(……また、見誤ったらどうしよう)
(ノアのときのように——)
——そうだ。ノアにも、一度疑いの目を向けてしまった。
あの瞳の奥が何を考えているのか、わからなくなったとき。
その距離の正体が“優しさ”だったと気づいたのは、ずっと後だった。
だからこそ、今は見極めたい。今度は、ちゃんと。
* * * * * *
ふわり、と鼻先をくすぐるぬくもりに、私はゆっくりと目を開けた。
「きゅうん……」
顔のすぐ近くで、スフレがちょこんと前足を揃えて座っている。小さな鼻先で私の頬をつつくようにして、起こそうとしてくれていたらしい。
「……おはよう、スフレ」
声に出してみて、自分の体の感覚を確かめる。熱は落ち着いた。動くと眩暈はするけれど、もう起き上がれないほどではない。けれど。
(……動けるようになったら、部屋から出なきゃいけなくなる)
この隠れ里での同室生活が、許されたのは「病人」だったからこそ。
もう少しだけ、ここにいたい。甘えていたい。
そんな自分の心に、小さくため息を落としながら、私は身を起こす。
* * * * * *
その夜、レオニスの部屋は、いつになく静まり返っていた。
私は湯気の立つハーブティーのカップを手に、卓上のランタンの光をぼんやり眺めていた。
レオニスはベッドの縁に腰掛け、無言で窓の外を見ていた。
普段なら冗談のひとつも飛んできそうな時間帯なのに、彼はやけに静かだ。
「……なぁ、ハルカ。染めてくれないか?」
唐突な申し出に、私は思わず顔を上げる。
「……え?」
レオニスは照れたように、首の後ろをかきながら続けた。
「いつもは自分でやってるんだけど、さ。後ろのほう、塗り残しがあったらマズいから。君に頼みたい」
差し出された染料の小瓶には、見慣れた茶系の色素が入っていた。
私は無言でそれを受け取り、レオニスの背後に回る。
彼は上着を脱ぎ、静かに膝を折って座る。その姿勢のまま、ややうつむきながら髪をかき上げた。
「……見えるだろ、ここ」
指先で示された生え際に、隠しきれない“地の色”がのぞいている。
それは、王家の血にしか現れないという冷たい銀。そしてそこに、わずかに混じるあたたかな金。
平民だった母の面影。
混ざり合ったその髪色は、月明りを受けて、まるで白金のようにきらめいていた。
「……綺麗な色だね」
つい本音が漏れた。
レオニスはわずかに肩を揺らし、聞こえなかったふりをする。
私はそっと染料を手に取り、その髪に指を通す。
指先から染み込む染料とともに、なぜだか胸の奥に罪悪感のようなものが生まれた。
この色を、塗りつぶしてしまうのが、少し惜しい——そんな感情。
洗面台代わりの水桶と、借り物の櫛と布染料を持って、私はレオニスの背にそっと手を置く。
「じゃあ……染めるよ。じっとしてて」
「おう。……あ、優しく頼む。頭皮は繊細なんでね」
「貴族って、ほんとに面倒くさい」
そんな軽口を交わしながら、私は彼の髪を撫でるように染めていく。
「……っ、なにこれ。魔法かと思った」
「え?」
「ハルカの指、すごく気持ちいい。まるで、魔法の手みたいだ」
くすぐったそうに笑って、レオニスが目を細める。その顔が、あまりにも無防備で。
「なぁ、またやってくれない?この先、何度でも」
囁くような声が、肌に触れる距離で落ちる。
私は思わず手を止めた。鼓動が、跳ねる。
(だめだ。こんなの、ずるい)
でも、言葉にはしなかった。ただ、そっと、指を髪に戻す。
「……しっかり染まってるよ。これなら、ばれない」
「そっか。ありがとな、ハルカ」
その声が、なぜか少し震えていた気がした。




