第60話 静かなる共鳴
「泣いておられるのは、理由があってのこと……でしょうか?」
その声は、森の静寂にそっと差し込むように響いた。
振り返ると、木漏れ日のように穏やかな顔立ちの青年が立っていた。
夜の闇に金茶色の髪がふわりと揺れる。美しく整った所作で、彼はハルカの隣に腰を下ろした。
「突然、失礼しました。おひとりで、寒くはありませんか」
「……いえ。大丈夫です」
思わずそう答えながら、ハルカは自分の声がかすかに震えていることに気づく。
(初対面なのに……どうして、こんなに話せそうな気がするんだろう)
彼の存在そのものが、どこか、許してくれるように思えて。言葉が自然とこぼれた。
「……最初から、居場所なんてなかったんです。みんな忙しくて、わたしに構っている余裕なんてなくて……」
「…………」
「それに、よそから来たってだけで。異物みたいに見られて……すごく、つらかったです」
ハルカは膝を抱えたまま、指先をぎゅっと握る。
「だから、何か手伝いたくて。仲間になりたくて。必死にできることを探して……それでやっと、少しずつ皆さんに受け入れてもらえて」
「……嬉しかったんです。やっと、自分もここにいていいんだって思えて。初めて、友達ができた気がして」
けれど——。
「でも、“鼻につく”って。“必死すぎて笑える”って言われて……」
声が小さく揺れた。
「空回りしてたのかなって……。やっぱり、わたしみたいなのが、目立っちゃいけなかったのかなって……」
木々の隙間から風が通り抜ける音がした。
しばし沈黙が流れたのち、フィリオはゆっくりと口を開く。
「……人の心は、移ろいやすいものです。好意も、警戒も、時とともに変わっていく」
彼の声は静かで、けれど芯がある。
「けれど、あなたが“あなた”であり続けたこと。それだけは、何にも揺るがされるべきではありません」
ハルカは、顔を上げた。
フィリオは、変わらぬ柔らかな眼差しでこちらを見ている。
「あなたのような方が、ここにいてくださって——本当に、ありがたいことです」
その言葉が、胸の奥に染み入るようにあたたかかった。
気づけば、口が勝手に動いていた。
「……わたしも、フィリオさんみたいな人がいてくれて、よかったです」
言ってから、はっとなって目をそらす。
「あ、いえ! 初対面なのに、なんか……すみません!」
慌てて頭を下げるハルカに、フィリオは微笑を崩さず、静かに首を横に振った。
「謝ることではありません。そう言っていただけたなら……私としても、救われます」
その言葉に、ハルカの胸の内に、小さな灯がともった気がした。
* * * * * *
翌朝、隠れ里の広場には、簡素な演壇が設けられていた。
作戦の成功を祝うため、辺境伯が正式に顔を見せるというのだ。
広場には、かつて見なかった数の兵士が集まっていた。
元々革命軍はおよそ五十名程度の少数精鋭だったが、今回の陽動作戦により、辺境伯の信任を得ることに成功した。
彼が率いる百名以上の私兵の中から、選りすぐりの十数名が先遣隊として派遣され、いまこの里で合流を果たしている。
ざわつく兵士たちの前に、堂々と姿を現した辺境伯は、深く礼を取った。
「皆の勇気と決断力が、この戦果をもたらした。我が家門は、誇り高き諸君の働きに、心からの敬意を表する」
その簡潔で力強い言葉に、自然と拍手が広がる。
冷え切っていた士気が、ようやく温もりを取り戻し始めていた。
——その熱気の中、フィリオはすでに複数の隊員に囲まれていた。
「見事な結界展開だった。王妃派の追手をここまで完璧に足止めできるとはな」
「陣形も無駄がなかった。おかげでこちらの動きが察知されずに済んだよ」
と、カイネルとヴィスが真剣な眼差しで称賛を口にする。
フィリオはあくまで冷静に対応しながらも、その場の中心に自然と収まっていた——
その光景を、少し離れた場所から眺めていたハルカは、そっと胸に手を当てた。
(フィリオさん……すごいな)
前夜、支えてくれたその人が、今こうして称賛を集めている。
それが嬉しくて、誇らしくて……でも少しだけ、遠く感じる。
「昨日は、ありがとうございました」
控えめに近づいたハルカの言葉に、フィリオはわずかに口元を和らげる。
「いえ、当然のことをしたまでです」
そう応じた彼は、ほんのわずかに身を寄せ、ハルカにしか聞こえない声で囁く。
「……あの晩、月明かりに濡れる横顔が、とても印象的だったのです。気づけば、放っておけませんでした」
その声音は穏やかで、どこまでも優しかった。
ハルカはわずかに息をのむと、耳まで赤くなり、小さく肩をすくめた。
「あ、あの……すみません……!」
「謝るようなことではありませんよ、ハルカさん」
変わらぬ穏やかさでそう返すフィリオの眼差しに、ハルカは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
フィリオの隣に小さな犬影——スフレが現れ、くんくんとハルカの足元を嗅ぐ。
「あ……スフレ」
名前を呼ぶと、スフレはくるりと尻尾を振って応えた。
少しだけ張りつめていた胸の奥が、すっとほどける。
——そんなささやかなやり取りの傍ら。
演壇には、すでに一人の男が立っていた。
風を受けて翻る黒衣、堂々とした立ち姿。
その顔には、革と金属で形作られた梟の仮面が静かに光っている。
“仮面の梟”。
革命軍の象徴にして、謎多き若き指導者。
その背には、辺境伯の精鋭たちと革命軍の主力がずらりと並ぶ。
視線が自然と集まる中、仮面の奥から、落ち着いた声が広場に響いた。
「皆、集まってくれてありがとう」
その声は強く、けれど柔らかかった。
聞く者の心を自然と引き寄せる、不思議な吸引力を伴っている。
「この戦果は、君たち一人ひとりの勇気の証だ。
そして……これからが、試される時でもある」
仮面の奥にある瞳は、真っ直ぐに前を見据えているように見えた。
ほんの少しだけ、視線が横に流れ、ハルカの方をかすめたような気がした。
「だからこそ、俺たちは誰ひとりとして見捨てない。
たとえ“ひとり”に見えても——君が戦ってきたことを、俺たちは知っている」
その言葉に、ハルカははっとして顔を上げる。
広場の空気が、ふっと変わった。
(……いまの、私のこと……?)
確信はない。けれど、心の奥に、優しく触れるものがあった。
仮面の梟の言葉は、焚き火のように兵士たちの胸を温めていく。
張り詰めていた表情が、少しずつ和らぎ、広場には安堵の息が広がっていった。
ただ一人——エレナは、その視線をハルカに向けることなく、黙って背を向けた。
* * * * * *
その日の昼、隠れ里にひときわ賑やかな声が響いた。
「ただいま戻りましたよーっと! いやー、もう!息子の結婚式が長引いちゃって!」
どっさりと荷を担ぎ、腕まくりした中年女性が里の入口に姿を現す。
癖のある髪を後ろでまとめ、腰にはやけに大きな包丁、肩には薬草と炊事道具が詰まった大きな袋。どこからどう見ても、ただの“おばちゃん”だった。
「オバサンさん、おかえりなさい!」
「やだ〜“さん”なんてつけないでよ。おばちゃんは“おばちゃん”でいいの!」
(……すごい……こんな賑やかな人、いたんだ……)
ハルカはまだ彼女と面識がなかった。
周囲の兵士たちは口々に「おばちゃん、おかえり!」「また台所が明るくなるな」と声をかけている。
(“おばちゃん”って、みんなにそう呼ばれてるんだ……)
(おばちゃんがいたら、明るい空気になりそう。良かった)
彼女の本名が「オバサンヌ=デシマル」だと知ったのは、もう少し後の話である。
* * * * * *
夜の見回り当番に名乗り出たハルカは、たまたま仮面の梟と二人きりになった。
星の瞬く静かな森道。
焚き火の届かない暗がりには、草の匂いと遠くの虫の声だけが漂っている。
その静寂のなか、隣を歩いていた仮面の梟がふいに立ち止まった。
フードを外し、仮面を外して顔を上げる。
月明かりに照らされたその横顔は、疲れと静けさに満ちていて、
けれど、ハルカの目にはどこまでもやさしく映った。
「……君がここで孤立してるの、気づいてたよ」
ぽつりと落とされた声は、夜気に溶けるように静かだった。
「でも……俺も、見て見ぬふりをしてた。
味方になれば、その分だけ、君に重荷を背負わせる気がして……」
ハルカは思わず足を止める。
「けど、君はもう十分すぎるくらい、ひとりで頑張ってたんだな」
「……そのことに、ようやく気づけた」
その言葉に、胸の奥が、じんわりと熱くなる。
目を見開いて言葉を探すけれど、何も出てこなかった。
(そんなふうに……見てくれてたんだ)
視界がにじむ。でも、泣きたくない。
せっかく立てた、自分なりの小さな誇りが崩れてしまいそうで。
そんな彼女の様子を見ながら、レオニスはそっと歩み寄った。
そして、ほんのわずかに屈みながら、柔らかい声で言う。
「……次は、ひとりで頑張らなくていい」
その一言で、堪えていた涙がすっとこぼれた。
何も言えず、ただ小さく頷いたハルカに、彼はそっと自分の手袋を外す。
迷うことなく、その手で彼女の頬にふれた。
仮面を外し、素顔を晒した彼の瞳は、夜の光を帯びて淡く揺れていた。
「……その涙、誰にも触れさせたくない。俺以外には絶対見せないで」
琥珀色の瞳が、すぐ目の前でじっとこちらを見ている。
ハルカは言葉もなく、ただ見つめ返すことしかできなかった。
「……本当はハンカチくらい持ってくればよかったんだけどな」
少し照れたように笑って、指先でそっと涙をぬぐう。
その仕草に、不意に胸が詰まって、ハルカはぺたりとその場に座り込んでしまった。
「……っ、ごめんなさい。ほっとして、ちょっと、足が……」
すると彼もクスッと笑って、隣に腰を下ろす。
「いいよ。少しだけ。こうしてても」
仮面の下に隠された、本当は傷つきやすくて誰よりも優しい素顔。
それを、いまだけ自分にだけ見せてくれている——その事実が、何より胸を締めつけた。




