第58話 信頼のゆらぎ
魔力の濃度が異常に高い空気のなか、一行は旧帝国軍の遺構へと足を踏み入れた。
かつて魔導封鎖の拠点として使用されていたというその場所は、荒れ果て、崩れた石壁と煤けた鉄骨がむき出しになっている。
「思ったより……ひどいな」
仮面の梟が低く呟く。
ハルカは簡易的な魔導測定器を胸元で構え、慎重に数値を確認していく。
「このへん、魔力の反応が濃いです。……あ、こっちの通路、少し弱まってるかも」
「ふむ、じゃあそっちを進んでみるか」
仮面の梟の言葉で、隊はハルカが示した迂回ルートへと進む。
だが、その直後——
「うわっ!」
先頭を歩いていた団員の一人が、足を取られて転倒する。
傷は深くなかったが、脛に擦過傷と打撲の跡がある。
ハルカは反射的にポーチを開き、持参していた包帯と消毒薬で手早く処置を行った。
「ごめんなさい……私が、あんな提案をしなければ」
団員は首を振ったが、ハルカの胸の奥に、言いようのない痛みが残った。
周囲はあっけらかんとした反応だったが、ハルカの顔からは血の気が引いていた。
(……私が、こっちって言ったから)
スフレが短く吠えて駆け出そうとしたが、結界の痕跡に阻まれたのか、足を止めた。
ハルカはその姿を見て、(私だけじゃない。スフレも……)と胸を締めつけられる。
——“何もできなかった”ことへの後悔が、静かに心にのしかかっていた。
* * * * * *
夜。野営地。
焚火のぱちぱちと燃える音だけが、静かに響いていた。
ハルカはスフレを膝に乗せたまま、黙って揺れる火を見つめている。
炎のゆらぎは、心のざわめきとよく似ていた。
「……気にしているのか。今日のことを」
突然かけられた低い声に、ハルカは顔を上げた。
焚火の向かいに、黒いフードの男が腰を下ろしていた。
革と金属で象られた梟の仮面。
“仮面の梟”——レオニス。
「……すみません。私の判断ミスで、怪我をさせてしまった」
「大事には至っていない。それに……お前が“見ようとした”こと自体が、大事なことだ」
焚火の揺らぎが仮面の面に影を落とす。
ハルカは目を伏せ、小さく首を横に振った。
「……それじゃ、ダメなんです。本当に“見えなきゃ”意味がないんです」
仮面の奥の表情は見えない。
けれど、焚火の熱とは別の温度を持つ声が返ってきた。
「俺もかつては、“選ばれた側”だった。
特別な家に生まれ、周囲の期待を背負い、未来を約束されたはずの立場だった」
しばしの沈黙のあと、仮面の男は焚火に視線を落とした。
「……だが、思い通りにはいかなかった。
何もできず、何も守れなかった。選ばれたはずの自分が、最初に取りこぼされた」
「それでも……今は皆さんに頼られてるじゃないですか」
「頼られている、か……」
ふっと低く笑う気配が、仮面の奥から漏れる。
「そうだといいがな。……ただの象徴に過ぎないかもしれない」
焚火の炎が、仮面の側面を鈍く照らしていた。
その金属の奥に、本音が宿る気がした。
「ハルカ。お前は、このままでも——きっと誰かの支えになれる」
静かなその一言は、仮面を通していても、不思議とあたたかく感じられた。
ハルカは、小さく頷いた。
その言葉が、じんわりと胸の奥に染み込んでいくのを感じながら。
* * * * * *
翌朝。
薄曇りの空の下、一行は旧帝国軍の遺構へと再び足を踏み入れた。
朝露を含んだ風が、静かに廃墟を撫でていく。
白み始めた空の下、ハルカはそっと観測器を握りしめた。
「……私、もう一度ちゃんと測ってみます」
その声に応じて、仮面の男が振り返る。
フードの奥、梟を象った仮面の奥から、低く穏やかな声が返ってきた。
「……付き合おう。“外の目”というのも、案外頼りになるものだな」
仮面の奥から向けられた視線には、静かな肯定と信頼があった。
その一言に、ハルカはそっと肩の力を抜き、深く呼吸を整える。
測定器を起動すると、微弱な魔力の揺らぎが、数値として表示された。
——そのときだった。
「……スフレ?」
ハルカの足元にいた小さな白い犬が、ピクリと鼻を動かし、地面を前足で掘り始める。
低く唸りながら、ある方向をじっと見つめていた。
(この反応……昨日はなかった)
スフレの視線を追いながら、再び測定器をかざす。
微細な魔力の波が、断続的に揺れていた。
「ここ……多分、旧帝国軍の結界が重なってた部分です。
消しきれてない“残響”があるかも」
ハルカの声に応じて、仮面の梟がゆっくりと歩み寄る。
腰から探査器を取り出し、静かに起動した。
「……確かにある。微弱だが、結界痕が残っている。……昨日の異常は、これが原因か」
仮面の奥の声は冷静でありながら、どこか納得の色を含んでいた。
ハルカは、ほっと小さく息を吐いた。
そのとき胸に浮かんだのは、昨日の痛みと、もう一つの感情。
(私なんかが出しゃばったせいだって、言われてもおかしくない。
でも、立場がどうあれ、失敗には責任がある。
……だからこそ、逃げずに、ちゃんと前を向いていきたい)
昨日と同じ空気の中、少しだけ胸を張って進む自分に気づく。
スフレが、そっと彼女の足に鼻先を寄せた。
「ありがとね」
ぽつりと呟くと、スフレは一度だけ小さく尻尾を振った。
* * * * * *
旧帝国軍の遺構から持ち帰った測定データと記録用結晶を提出したあと、ハルカたちは再び霧の谷の隠れ里に戻っていた。
応急処置を受けた団員は軽傷で済んだようで、怪我をした足を引きずりながらも、自ら進んで報告に同行していた。
「……ってワケで、ハルカちゃんの読みが外れたってより、“昔の結界”がまだ機能してたのが原因だ。気にすんなって、な?」
そう言ってくれたのは、倒れた本人だった。
周囲の団員も、「まあ、ありゃ運が悪かった」と軽口を叩く者が多く、責めるような空気はどこにもなかった。
(……それでも、やっぱり怖い)
もし誰かの命に関わるような失敗をしてしまったら。
その重さが、静かに胸の奥に沈んでいくのを感じた。
* * * * *
任務を終えた夜、隠れ里の片隅に設けられた焚き火の場に、柔らかな明かりが揺れていた。
スフレが二人の間に寝そべり、白い毛並みが火の色に染まっている。
「……あんた、ほんとに普通の女だったの?」
沈黙の中、ふと漏れたエレナの声に、ハルカは少し驚いたように顔を上げた。
そして、肩をすくめるように微笑む。
「うん。ごく普通の、モブみたいな人生だったよ」
「モブ?」
「……あ、えっと。なんていうか、物語の中で背景みたいな、誰の記憶にも残らないその他大勢って意味」
それは卑下でも謙遜でもない、ただの事実としての言葉だった。
エレナはしばらく黙ってから、焚き火に目を落としたままぽつりと呟く。
「……でも、それがアンタの強さかもね」
思わぬ言葉に、ハルカは頬を少し赤らめた。
「ありがとう」
その言葉は、火の音にかき消されるように小さく、それでも確かに届いた。
エレナは自分の足を見下ろし、包帯の巻かれた部分にそっと指を添える。
「アンタがいなかったら、私、今ごろどうなってたか……って、ちょっと思っただけ」
冗談めかすような言い方だったが、その笑みはどこか照れているようにも見えた。
ハルカは、胸の奥があたたかくなるのを感じながら言う。
「こっちこそ。最初からずっと助けてもらってばっかりだったし……」
視線が交わる。
言葉はもういらなかった。二人は無言のまま、そっと笑い合う。
その間で、スフレがあくびをひとつ。ぱちりと瞬きをして、再び前足に顔をうずめた。
夜風は静かで、焚き火の音だけが穏やかに響いていた。
確かにそこには、初めて生まれた“信頼”と呼べる絆が、火のぬくもりのように灯っていた。
* * * * *
それから二週間後。
再び観測された西斜面の魔力反応を受け、革命軍の会議が開かれた。
隠れ里の会議場には、張りつめた空気が漂っていた。
「西側の斜面に、新たな魔力反応が観測されたそうだ。ただの偶然にしては出来すぎている」
カイネルが地図の上を指差す。
「恐らく王妃一派がこちらの動きを探っている。“迎え”の手はすぐそこまで来ていると見ていいだろう」
静まり返る中、仮面の男が口を開く。
「……陽動を仕掛けよう。敵の目を引きつけ、その間に本命を迎え入れる。……“辺境伯”だ」
梟を模した仮面の奥から響く落ち着いた声。
その名が挙がっただけで、場内にざわめきが広がる。
かつて王妃に反旗を翻し、今は消息不明とされていた人物。
革命軍内に、緊張が走った。
「迎えは少人数で構わない。残りは陽動部隊として西の斜面に展開する」
その説明を聞きながら、ハルカの胸に、じわじわと嫌な感覚が広がっていく。
(この流れ、どこかで……)
記憶をたぐる。断片的な情報が脳裏を駆け抜ける。
レオニスルート序盤——
辺境伯を迎え入れるために仕掛けた陽動作戦。
選択肢を誤って、彼を失った。バッドエンドになった、あの時。
(でも……これまで、ゲームと同じ展開なんて、ほとんどなかった)
(わたしが知らない展開ばっかりで、何度も予想を外してきた。だけど今回は——)
状況が、あまりにも一致しすぎていた。
(……伝えなきゃ。ここで黙ってたら、また誰かを失うかもしれない)
手のひらがじっとりと汗ばむ。心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
でも——
ハルカは、机の下でぎゅっと拳を握る。
「……まっ……待ってください!」
声が震えていた。
部屋の視線が一斉に自分に向けられる。喉が詰まりそうになる。
だけど、逃げない。もう、黙ったままじゃいられない。
「……その……作戦……少し、危ないかもしれません……」
カイネルが目を細める。
仮面の梟も、静かにこちらへ視線を向けた。
「理由を聞こう」
その声は、決して責めるようではなく、ただ淡々と、確かに問うていた。
ハルカは、ごくりと息をのむ。
手元の資料も、自分の声も、今は何も頼れない。
ただ、自分の中の記憶と、確信だけを信じて。
「昨日の魔力反応は、誘導の痕跡がありました……多分、陽動を見越した“罠”です。あのまま進めば……包囲されるかもしれません」
小さく肩が震えていた。けれど、言葉は途切れずに続いた。
「確証は……ありません。でも、もしも間違ってたら、取り返しがつかないことになると思って……」
言い切ったときには、心臓が喉まで上がっていた。
息を詰めたまま、反応を待つ。
沈黙のあと、仮面の梟が口を開いた。
「……なるほど。一理ある」
しかし、カイネルは静かに首を振る。
「確証がない以上、判断材料にはならない。私情や感覚で軍を動かすわけにはいかないな」
ハルカは小さくうなずく。わかっていた。
信じてもらえるには、まだ足りていない。
それでも——言えた。それだけでも意味がある。
作戦は予定通り実行されることになった。
ハルカは隠れ里に残り、ただ見送ることしかできなかった。
出発直前。
仮面の梟は、立ち止まり、ハルカの方を一度だけ振り返った。
言葉はなかった。
けれど、何かを言いかけて、それを飲み込んだような、そんな静かな気配があった。




