第52話 不協和音の影
午前の光が差し込む観測室。分厚い書物と魔導端末の画面が交互に視界に入る。
いつものように、私は研究所の一角でノアの補佐をしていた。
魔力測定装置の微調整、補助記録の整理、そして術式に関する古文書の解読——。
まだ完璧に読めるわけじゃないけど、【共通語体】なら、最近は意味がとれるようになってきた。
「そこ、ひとつ飛ばしてるよ。……まあ、やり直す時間はたっぷりあるから」
ノアの声が背後から落ちてくる。
それはいつものように冷静で、どこか呆れているようでもあったけれど——
「君は、やればできるんだから」
その言葉に、私は思わず手を止めて、顔を上げた。
……ずるい。
そうやって、何気なく心を撫でるようなことを言うんだから。
「それ、誉めてくれてるの?」
私が軽く睨むと、ノアは唇の端だけで笑った。
机の上には、湯気の立つ湯飲みが二つ。
どちらがどちらのものかも曖昧なまま、私はふと近くの方を手に取る。
その瞬間、ノアの手と私の指が触れた。
お互い、なにも言わない。
でも、ただそれだけで、なぜか胸がじんわりと熱くなる。
「ハルカ、少し書いてくれる?」
ノアがメモ用紙と筆記具を差し出してくる。
「君の記憶にある、得意な作業。……たとえ、こことは違う仕組みのものだったとしても、何かの糸口になるかもしれない」
私は少し考えたあと、紙に文字を走らせる。
それは、前の世界で私が開発していたシステムを支える設計図——厳密にはインフラ周りの構成に“近いもの”だった。
電力供給にあたる魔力回路の冗長化、情報端末の負荷分散処理、術式エラー時のフェイルセーフ構造——
直接の専門ではなかったけれど、業務上で学んだ知識が、意外にもこの世界の仕組みと共通していた。
「……ふむ。理に適ってる。君は、以前もこういう作業をしてたの?」
「記憶の断片では、そんな感じ。詳しくは説明できないけど……」
私は曖昧に笑って誤魔化す。
ノアには言っていない。私が“異なる世界”から来たことも、
そして、別の時間軸では——あなたを、一度、喪ったことも。
今はただ、こうして隣で同じ湯飲みを手に取れることが、
奇跡のように思える。
「キャン!」
スフレが資料棚の間から飛び出してきて、机の上の紙を踏みつけながら駆け回る。
「ちょっ、スフレ〜っ!? それ、まだ書きかけなんだけど!?」
思わず声を上げて追いかける私を見て、ノアはくすりと笑う。
「……君は、賑やかでいいね」
賑やか。そう言われて、私は少し照れながら紙を拾い直した。
何でもないような日々。
穏やかで、満たされていて——
できることなら、これがずっと続いてほしいと思った。
けれど——その幸せな時間に、ほんの小さな揺らぎが混じったのは、数日後のことだった。
観測装置の記録に、ほんのかすかな“魔力の揺れ”が現れた。
「誤差範囲内だが……君の数値、ここ数日で微かに変動してる」
ノアがモニタを見つめながら、眉をひそめる。
「でも、私自身は特に何も……」
そう言いながらも、私はどこか落ち着かない気配を感じていた。
スフレも、ここ数日、夜になると何かを警戒するように窓辺に立って、じっと外を見つめるようになっていた。
そして——
その“気配”が、はっきりと形を取ったのは、翌日の夕暮れだった。
* * * * * *
夕方、空気が少し涼しくなり始めた頃。
私はスフレと一緒に研究所の中庭へ出ていた。言語カードの練習がひと段落したあとのちょっとした息抜きだった。
赤みが差し始めた空の下、スフレは芝の上をはしゃぎ回っている。
「ちょ、ちょっと待って、急に走らないで——きゃっ!?」
ぐいっとスフレに引っ張られ、私は足をもつれさせて前につんのめる。
ほんの一瞬、視界が揺れて——
背後から、鋭い音が風を裂いた。
直後、私の頭上すれすれを、何かが通り過ぎる。
ドンッ!
すぐ横の木の幹に、黒い矢が深々と突き刺さっていた。
……え?
私は、硬直したまま、振り返る。
誰もいない。
けれど、明らかに——“狙われていた”。
スフレが、震えるように唸る。私の足元にぴたりと寄り添い、尻尾を垂らしている。
——今、引っ張られていなければ。
——あの矢は、私の頭を貫いていた。
背筋が、氷のように冷たくなる。
笑い声の聞こえた研究室、穏やかだった中庭、ほんの数分前の空気。
それがまるで、作られた“静けさ”のように思えてならなかった。
何かが、近づいている。
それはもう——すぐそこにある。
* * * * * *
「——どういうことだ。研究所の中で、君が狙われた?」
ノアの声は低く震えていた。
彼の手元にあるのは、スフレが咥えて戻ってきた黒い矢。
射られた現場は、ハルカがほんの数歩前にいた位置。
スフレに引っ張られ、ほんの一瞬ズレていなければ、直撃していた。
「矢尻に、王妃の紋……。だとすれば、これはただの嫌がらせじゃない。狙いは明確に、君——」
ノアの拳が震えていた。指先に力がこもりすぎて、紙を握り潰しそうなほどだった。
「でも、研究所内で……。ここは王の保護下にあるはずじゃ……」
そう。ここは王命によって保護対象となった“研究対象”を、安全に保つ場所のはずだった。
それなのに、どうして。
「内部犯か、あるいは侵入者か。どちらにせよ、事態は深刻だ」
ノアはスフレの頭を撫でながら、ゆっくりと立ち上がった。
「……君を、これ以上危険にさらすわけにはいかない」
その声に、いつもの余裕はなかった。揺らいでいた。珍しく。
* * * * * *
そして、翌日。
観測室の空気は、どこか張りつめていた。
私は、昨日の出来事を思い返しながら、手元の資料を機械的にめくっていた。
ノアの姿はそこになかった。会議があると言って出ていったまま、まだ戻ってこない。
そのとき。
「失礼。君が例の対象か」
ふと、背後から落ち着いた声がした。
振り返ると、入り口に立っていたのは見知らぬ男性。
30歳前後だろうか。銀縁の眼鏡越しにこちらを観察するような目つきで、軽く会釈をしてきた。
男は胸元の内ポケットから、紺色の革製ケースを取り出すと、手慣れた所作で片手に開いて見せた。
中には、王都の紋章と「王都特例調査庁」の印章が刻まれている。
「クラウス=ラインバーグ。王都特例調査庁、調査官だ」
その肩書に、一瞬だけ空気が変わった。
王都特例調査庁——王直属で、特殊案件の調査と処理を行う独立組織。
公的な捜査機関としては異例の権限を持つ、いわば灰色の番犬とも言われる存在。
「きみが危険に晒されたと聞いて、上からの指示で来た。……といっても、まあ、昔なじみの頼まれごとでもあるけどね」
クラウスはひょいと椅子を引き寄せて座る。
その所作には、どこか余裕があった。
「ノアが……あなたに?」
「ああ。昔からの腐れ縁でね。あいつ、感情を見せるようなタマじゃないのに、君のことになるとちょっと……熱が入る」
私は言葉を失った。
「調査は始めてる。内通者の線も含めてね。外部の侵入なら痕跡があるはずだが……」
クラウスは淡々と、けれどしっかりと状況を把握している様子だった。
そのとき、扉が開いてノアが戻ってきた。
私とクラウスの姿を見て、一瞬だけ表情を曇らせる。
「——来ていたか」
「ああ。君が言ってた例の対象、直接見ておいた方がいいと思ってね」
ノアはクラウスに歩み寄り、低く言った。
「……あの矢には、“警告”の意味もある。だが、これはただの始まりかもしれない」
クラウスは頷いた。
「君があそこまで狼狽えるなんて。——彼女が、どれだけの存在か、察するよ」
私は、ふたりのやり取りをただ見つめるしかなかった。
そのときはまだ——
この出会いが、後の選択に繋がっていくとは、知らなかったのだ。




