第46話 夜明けの歩幅
人払いの命が下され、部屋の空気が変わる。
ギルゼノール団長は名残惜しそうに数歩退いた後、未練がましくディアルの背後に視線を残しつつ、ゆっくりと扉の外へ消えた。
ふたりきりになった空間で、ディアル様はゆっくりと振り返る。
——その直前。
廊下の奥から、ばーん!と土煙とともにスライディングでギルゼノールが戻ってきた。
「ディアル様ァァァァーーッ!! 改めて、命を賭してお守りすることをここに誓いまするううう!!」
「はいはい団長、戻りますよ」
副官がすかさず後ろ襟を掴み、ギルゼノールをずるずると引きずっていく。
「……さっきから、行ったり来たり忙しいなこの人」
私はこめかみを押さえながら呟いた。
引きずられながらもマントの裾だけは誇らしげに翻し、ギルゼノールは名残惜しそうに片手を掲げていた。
* * * * * *
再び、静寂が戻る。
ふたりきりになった空間で、ディアル様はゆっくりと振り返る。
「……あの森で、魔獣から子犬を庇ったとき。
君が駆けつけてきて、恐れもせずにスクロールを広げて——」
ディアル様はそこで少し言葉を切ると、ふっと小さく笑った。
「……あのとき、胸の奥が、どうしようもなく熱くなった。理由なんてわからなかった。ただ、君に触れたくて、名前を呼びたくて……。それだけだった」
「っ……」
言葉にならない。喉の奥がきゅうっと詰まる。
その瞬間、不意に背後から抱き寄せられた。
「わ、たし……っ」
耳元に彼の静かな声が降りてくる。
「……震えてる」
「だって……こんなの……」
言いかけた言葉がうまく続かない。近すぎる吐息と、包み込むような腕のぬくもり。
「……君のことは、最初からどこか懐かしかった。会った瞬間から、どうしてだろうと思ってた。まるで、心の一部を思い出したみたいに」
彼の声は静かに、でも確かに揺れていた。
「君に触れられると、安心する。……それだけで、救われる」
ハルカは、答えられなかった。だけど——答えなんてもう、いらなかった。
* * * * * *
朝の空気は、どこか張り詰めていた。
宿の前。ライエルの姿を見た瞬間、私は言葉を失いかける。
数日前——彼は私に、想いを伝えてくれた。
だからこそ今、交わすべき言葉を探しあぐねていた。
「ハルカ…。久しぶりだな」
ぶっきらぼうな声。それだけで、胸がいっぱいになる。
(……変わってない。でも、少しだけ……)
その声に、どこか柔らかさが滲んでいた。
ライエルは一歩、私のそばに寄ると、声を潜めて耳元で囁いた。
「心配するな。……“表向き”の報告書では、アスランはディアル殿下ではないと記す」
その声は、驚くほど低く、穏やかで——
だけど至近距離から直接響いてくるせいで、耳の奥がじん、と痺れる。
(……は、破壊力……やば……)
低音の囁きボイスというものは、もっとこう……舞踏会とか、劇的な場面で放たれるべきでは?
なぜ今、至近距離の横顔+真顔で真剣な話をしながら放たれるのか。
(いやいや無理、距離、声、トーン、全部ずるいってば……!)
頬どころか喉元まで一気に熱くなる。
このままだと心臓がもたない。わたしが持たない。
あまりに黙り込んだせいか、ライエルがふと私の顔色に気づく。
「……っ、すまん。……つい」
我に返ったように一歩引き、わずかに視線を逸らしたその顔が、しっかり耳まで赤く染まっていた。
(……赤くなりたいのはこっちですけど!?)
気まずそうな彼の姿に、思わず笑ってしまいそうになるのをなんとか堪える。
空気が少しやわらぐなか、彼は表情を引き締め、静かに続けた。
「本当の報告は、王に直接上げる。
“アスランはディアル殿下であり、王妃一派の目を避けるため偽名を使っている”と——
そして、俺が引き続き護衛につくと伝えるつもりだ」
その声音には、確かな覚悟が滲んでいた。
「王からの命でもある。……だから、お前が負う必要はない。全部、俺が背負う」
その横顔に宿るのは、王都近衛騎士団“隊長”としての誇りと、ひとりの男としての意思。
「……瞳の奥が、ようやくあの頃の“殿下”に戻った。だから——」
「表向きの監視任務は、ここで解除する。俺の独断ではあるが……もう、アスランを“危険”とは思えない」
その言葉に、私はようやく、ほっと息をついた。
そのときだった。
宿の中から騒がしく扉が開き、アスランが勢いよく飛び出してくる。
「ちょ、なになに!? なに揉めてんの!?」
「……揉めてはいない。任務が終わったと伝えただけだ」
「え、ほんと!? やった〜〜〜!! これで堂々と眠れる〜〜〜!! オレ絶対、無実だからね!?」
「図太く寝てたではないか」
そう言ったのは、後ろから現れたギルゼノール団長だった。
「おお〜〜! 我が宿敵にして友、ヴァレストよぉぉぉお!!!」
「……また始まった」
「南の剣と東の炎の再会じゃあああ!!!」
「黙れ」
「団長、静かにしてください」
冷静な副官のツッコミが飛び、空気が少しだけ和らいだ。
そんな中、アスランがぽつりとこぼす。
「……なんか、やっと肩の荷が下りたって感じだよ」
「今までずっと、気にしてたの?」
私がそう尋ねると、アスラン——いや、ディアル様は少し視線を泳がせた。
「まーね。誰にも気づかれずにうまくやれてると思ってたんだけど……
ほら、意外と君らには見透かされてたから」
その言葉に、胸がきゅっとなる。
(……本当は、ずっと不安だったんだ)
「……だったら、もっと早く言ってくれればよかったのに」
素直な気持ちがこぼれてしまって、恥ずかしさをごまかすように、口元をゆるめる。
「ほんと、鈍いのはどっちなんですかね」
ちょっと意地悪っぽく笑うと、ディアル様は「え〜〜〜」と肩を落とした。
その姿を見て、私はふっと真顔に戻った。
「……でも、今なら少しは、支えられる気がするんです。あの頃の私とは違うから」
ディアル様が、わずかに目を見開く。
その私たちのやりとりを静かに見守っていたライエルが、少し目を細めた。
「頼もしいな。……本当に、強くなった」
その言葉に、胸がきゅっとなる。
私を見つめたまま、ライエルはゆっくりと口を開いた。
「いい目をするようになった。……誰かを“信じている”目だ」
その声は穏やかだったけれど、隣にいたアスラン——いや、ディアル様が一瞬、わずかに肩を震わせたのを私は見逃さなかった。
けれど次の瞬間、ライエルはふっと目を逸らし、ほんの少し照れたように髪に手をやった。
「……俺は、まだ諦めてないからな」
小さく呟かれたそれに、心臓が跳ねた。
(やっぱり……覚えてる。あの日のこと)
そんな私たちの間に、鋭く光る視線が差し込む。
「およ……? およよよよ〜〜?」
ギルゼノール団長が、いつの間にか身を乗り出してきていた。
「お主ら、さては……さてはさてはさては〜〜!? うっわ〜これは甘酸っぱいぞ〜〜!? いいぞもっとやれ〜〜〜!!」
「うるさい!!」
ライエルが本気で顔を赤くして怒鳴ると、ギルゼノールは「ひぃ〜っ」と両手を挙げてのけぞった。
「団長、空気読んでください」
副官の冷静な声が重なり、場の空気は一気に騒がしく、そしてどこか温かくなっていった。
* * * * * *
昼下がりの静かな時間。
アスラン——いや、ディアル様は出発の準備を整えていた。
「まずは……自分自身を調べる。なぜ記憶を失い、若返ったのか。その理由がわからないままでは、先へは進めないからね」
彼は荷を背負い、私に向き直る。
「……確かめたいんだ。自分自身のことを」
それ以上は語らなかったけれど、その瞳に浮かんだものを、私は忘れない。
(きっと……何かを、変えようとしてる)
その背中を見つめながら、私はひとつ、どうしても聞かずにいられなかった。
「……ディアル様。胸が……痛むことは、ありませんか?」
彼はわずかに驚いたように瞬き、それから、微笑む。
「痛むよ」
「……えっ」
思わず、血の気が引いた。
(やっぱり……もう、病が……!?)
ゲーム『薔薇と鏡の王国』の記憶がよみがえる。
ディアルは不治の病に侵され、やがて命を蝕まれていく。
プレイヤー=聖女は、その命を救うために、自らの力と引き換えに癒やしを施すのだった。
(まだその段階じゃないはず……でも、もし、すでに発症していたら……!)
動揺を隠せず、視線が彷徨ったそのとき。
「——君のことを考えると、胸がドキドキするんだ」
あまりにも自然に、あまりにもさらりと、ディアルはそんな甘い言葉を口にする。
「なっ……!」
頬が一気に熱くなった。鼓動が跳ねる。からかわれたと知った瞬間、顔から火が出そうになる。
「そ、そういう冗談はよくないですっ!」
「ごめんごめん。でも本当に、大丈夫だよ」
そう言って、ディアルはやさしく微笑んだ。
「身体に異常はない。……君に、心配かけるつもりじゃなかったんだ。ごめんね」
(……たしか、ゲームでは病が発動するのは、“聖女”と出会った後だった)
(じゃあ、まだ大丈夫……?)
けれど、それでも——どうしても伝えておきたかった。
「……あの、ひとつだけお願いがあります」
「うん?」
「王家の墓には、立ち寄らないでください。……あの場所は、良くない。どうしても」
ディアルは少し驚いたような顔をして、それから静かに頷いた。
「……わかった」
その優しい声を聞きながら、私は心の中で祈るように思う。
(——ロズミラの世界で、あなたはあの場所で“発症”した)
(王家に代々受け継がれる、不治の病。数世代に一度だけ現れる、血統の“業”……)
(王家の墓に眠る“何か”が、彼の血と反応したことで、病は目を覚ました)
(だから、お願い。今のあなたまで——同じ道をたどらないで)
「気をつけて」
私の祈るような言葉に、彼はもう一度、穏やかに笑った。
「君は、やっぱり優しい」
そう言って、彼は歩き出す。
* * * * * *
一方その頃、街の外れ。
荒野の奥の小さな野営地で、一人の青年が焚き火を見つめていた。
「……まだ、たった五十人。遠いな。だけど——きっと、辿り着ける」
くすぶる薪をかきながら、ぽつりと呟く。
「“王都を覆す日”は、まだ先だ。……でも、必ず来る。なあ、兄上」
その声は、かすかに揺れながらも、確かな熱を宿していた。




