第45話 見えざる印、偽りの仮面
意識が戻ったとき、ふんわりとしたシーツの感触が背中に広がった。
見知らぬ天井。そして——
「……目が覚めたんだね、ハルカ」
顔を向けた先に、銀髪碧眼の美貌があった。
アスランの姿のまま、なのに——
纏う空気が、まるで違っていた。
あどけなさすら感じられた彼の瞳は、今やまっすぐに私を射抜くような、静かな光を湛えていて。
少年の面影はそのままなのに、どこか儚く、美しく、触れたら壊れてしまいそうな気高さがあって。
完璧で、気品に満ちていて。だけど、ちゃんと——私だけを見ていた。
(まって、むり……)
(何この“ディアル様モード”。理性、どこに置いてきたっけ……)
(これ……乙女ゲーで全人類が沼に落ちる瞬間じゃん……)
(ま、またこの流れ……!近い!顔がいい!!)
ディアル様は椅子に腰かけ、身を乗り出すようにして私を見つめていた。その瞳に、静かな心配の色が浮かんでいる。
「ごめんね。急なことだったから、君を運ぶには、ここが一番安全だったんだ」
そう言って、困ったように優しく笑う。
「私の部屋だけど、気にしないで。もちろん、無理に動こうとしなくていい。身体のほうは、大丈夫?」
(って、ここって……ディアル様の、ベッド……!?)
ディアル様はそっと手を伸ばし、私の額に触れた。体温を確かめるような、優しい仕草。
(ちょっと無理無理無理無理!)
(こんな優しくされたら……)
(っていうか!)
(ここまで運んでくれたって……まさか、まさかのお姫様抱っこ……!?)
(や、やだ、死ぬ……無理、尊死する……!)
「……顔が真っ赤だ。熱が上がったのかな」
ディアル様が首をかしげた。
違います。ディアル様、違います。それ沸騰なんです。乙女心の限界突破による自爆です。
(お姫様抱っこで運ばれて、目覚めたらディアル様の部屋で、しかもベッドで、額に手を……って、連続スチルってこういうこと!?)
(あああああああ!!!)
身体中の血が一気に沸騰した。
「だ、大丈夫ですっ……もう……っ」
言いかけて、視界の隅にいたモフッとした影に気づいた。
「……キュゥン」
子犬が、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
ふと気づけば、ベッドの足元でワンコが丸くなっていたのだ。
「君の相棒は、とても健気だね」
そう言ってディアル様が子犬を撫でる仕草すら、まるで聖母だった。
私がぽかんと見とれていると、ディアル様はふと視線をこちらに戻し、
微笑を浮かべたまま、静かに口を開いた。
「私は——ディアル=デ=フィレント=エルヴィオン。この国の第一王子だ。……君は、もう知ってると思うけど?」
その言葉に、息が止まりそうになる。
そんな穏やかな空気のなか、ふとハルカは尋ねる。
「……記憶が、戻ったんですか?」
ディアルはふわりと微笑む。
「……断片的に、少しずつ思い出している。
そして、君を見たとき——心が先に、思い出したようだった」
その言葉に、胸の奥がきゅうっとなる。
(あ、もう無理。好き……)
でも、どうしても気になることがあって、私はそっと問いかける。
「……あの、記憶が戻りつつあるのに……どうして、若返ったままなんですか?」
彼は一瞬目を伏せ、ふっと優しく笑う。
「それは……私にも、まだ分からない。ただ、何かが起きた。そう思うしかないんだ」
そう答えると、彼はそっと私の頬に触れた。
まるで心配させたことを詫びるように、慈しむように。
触れるだけの仕草なのに、心まで包まれていく気がした。
そのまま、何か言いかけた彼の唇が、微かに動いた——
しかしその甘やかな時間は、長くは続かなかった。
扉を叩く、重い音が響く。
「煌聖騎士団の者だ。アスランと名乗る人物に用がある」
ディアルの目が細められ、静かに立ち上がる。
そして——再び、仮面をかぶる。
(ディアル様……?)
一瞬にして、空気が変わった。
ディアルの目が細められ、静かに立ち上がる。
「……来たか」
そう呟いた彼の表情が、ふっと変わる。
先ほどまでの気品と誠実さをほんのり残しつつも、肩をすくめるように口元に笑みを浮かべる。
「いやはや……面倒なことになったね」
どこか軽く、他人事のように笑って見せるその姿は、まさに“アスラン”。
けれど。
(……違う。わかる)
わたしの目には、見えてしまった。
彼が仮面をかぶった、その一瞬の緊張と覚悟の揺らぎが。
「少し時間を稼ぐから、ハルカちゃんは中にいて」
そう言ったときの声は、優しかった。
だけどその奥には、鋼のような決意があった。
「……すぐ済ませるから、大丈夫」
扉へと向かうディアルの背中に、思わず手を伸ばしたくなった。
「ディアル様……?」
けれど、その背はもう、“アスラン”のものだった。
かつての軽薄さを纏いながら、しかし確かな覚悟を胸に——
新たな舞台へと、歩み出していく。
(演じている。彼は、殿下であることを隠すために)
私は迷った。けれど、あの背を一人にするのは、どうしてもできなかった。
たとえ何があっても、彼のそばにいたかった。
だから——私は、ひと呼吸遅れて、静かにその後を追った。
* * * * * *
天幕の外。扉が開かれ、ひときわ騒がしい声が響く。
「おお……久方ぶりだな、アスラン殿ッ!」
現れたのは、煌聖騎士団団長、ギルゼノール=フレアクライト。その目がアスランを見た瞬間、ぎょっと見開かれた。
「……やはり。やはり似ている……その立ち姿、その気品ッ……!」
マントをばさりと翻し、勢いよくアスランに詰め寄る。
「おおおおおお!! そのお姿、その輪郭、その瞳の輝き!
やはり、若き日のディアル殿下ァァァァーーッ!!」
「は……?」
アスランは思わず眉をひそめ、額に手を当てる。
「まってまって、前にも言われたけど……オレってそこまで殿下っぽいの?
てか、今の比喩、めちゃ盛ってない?」
「いや、違うぞよ!? これは……別人? されどこの若々しき輝き——!
まるで若かりし頃のディアル様のよう……ッ!!」
団員たちがうんざりしたように顔を見合わせた。
「……また始まった」
「懐かしいな、この流れ……」
「前回の調査でも“まるで彗星のごとく”とか言ってましたよね、団長」
副官が溜息まじりに言った。
「団長、いいかげんにしてください。前回も“そっくりだけど反応なし”でしたよね?」
「な、なんと! これは由々しき誤解ッ!」
アスランは肩をすくめて笑う。
「まあ、いいけど。王子に似てるって言われて悪い気はしないし?」
けれどその瞳の奥には、誰にも見せない“演者”としての覚悟が宿っていた。
煌聖騎士団の仮設拠点。張り詰めた空気の中、アスランは円卓の中央に立たされていた。
その前で、魔石印を刻んだ古びた装置が淡く光を放つ。
「……おい、今、ちょっと光ったぞ?」
騎士の一人がざわめいた。
その瞬間——
「今の光は殿下の気高さが具現化したにすぎんッ!」
ギルゼノールの無茶な弁解に、場が一瞬凍る。
「いや、違うッ! あれは……炊き立ての米に反応しただけだ!!」
「炊き立ての……は?」
困惑の空気を吹き飛ばすように、アスランが笑う。
「いやあ、オレってば光るタイプだったのかも?」
ギルゼノールは真顔に戻り、
「アスラン殿は、ただのそっくりさん。似て非なる、気高き民……であるッ!」
強引すぎる理屈で“別人”を押し通す。
その瞬間——
「お待ちなさい」
冷たい声が空気を断ち切るように響いた。
現れたのは、王妃派筆頭の参謀。鋭い眼差しで一行を見下ろす。
「その者が“そっくりさん”にしては出来すぎている。簡単には信じられん」
空気が重くなる中、ギルゼノールは小さく息を吸い、アスランの肩に手をかけると、次の瞬間——
「お主のせいで! 拙者がどれほど風評被害を受けたと思っている!!」
スパーン! と、アスランの頭を平手で叩く。
「いでっ!? ちょ、なに!? え、えぇ!?」
「おまえが殿下に似てるから、私がどれほど苦労したことか!!」
さらに、ギルゼノールは勢いよくマントを脱ごうとするが——
「ぬぅっ!? ……っ、く……なんと……外れぬ……ッ!」
肩の金具がうまく取れない。
じたばたともがく姿に、部屋全体が凍りつく。
「…………………………」
団員、参謀、副官、アスラン(ディアル)、ハルカ。
全員が「え……」という顔で沈黙。
するとギルゼノールは、何事もなかったかのように仁王立ちのままマントを翻し、芝居を再開。
(副官:……金具、緩めとくって言ったのに……)
「この者がディアル殿下だと!? ならば——我が喉を切って殿下の潔白を示そうぞッ!!」
「だ、団長!?」
副官が慌てて制止に入る。
「拙者の命に代えてもこの者は只人ッ!!!」
(……拙者!?)
(いやいや、普段は“わたくし”じゃなかったっけ? 熱入りすぎてキャラ変わってる……!)
と、ハルカは内心で突っ込む。
ギルゼノールはさらに頭を地に擦りつける勢いで深く土下座した。
「拙者が長年お仕えした殿下は、もっとこう……威厳と静謐の化身ッ! このような軽薄な風体の者とは、似ても似つかぬのでござるッ!!」
参謀が一歩踏み出し、目を細める。
「……馬鹿馬鹿しい。だがそこまで言うなら、今回は目を瞑ろう」
(団長の芝居に慣れきった私たちも問題なんですけどね……)
副官がぼそっと呟く。
ギルゼノールの心の中には、嗚咽がこだました。
(殿下……お守りしましたぞぉぉぉ……!)
こうして、アスランはひとまず“解放”された。
だが、真実を知る者の胸の内には、消えぬ火が灯っていた。




