第44話 君の涙に、触れてしまった
「アスラン、という名の青年が目撃されたのは……この辺境の地」
報告書の地図に指を滑らせ、ギルゼノール=フレアクライトはその一点で止める。
「……ほほぉう……これはこれは……わたくしの勘、冴えわたっておるのでは……!?」
黄金に縁取られた煌聖騎士団の制服が揺れる。マントを翻し、大仰に腰に手を当てる姿は、芝居がかった道化のようですらあった。
だが、その顔はすぐに引き締まる。
「殿下が……最後に目撃された場所と一致する、だと……?」
空気が重くなる。副官が緊張した面持ちで口を開いた。
「団長。王妃ヴァレリア陛下より、直々の命が届いております」
差し出された封書には、王家の紋章。
——王妃、ヴァレリア。
妖艶な美貌と威圧的な魔力を備え、王政の実権を掌握しつつある。彼女が主君であり、煌聖騎士団はその直轄にある。
ギルゼノールが封を切ると、冷たい筆跡が目に飛び込んできた。
『王妃ヴァレリア陛下の命により、アスランなる者を拘束・尋問せよ。
万が一、ディアル殿下であった場合は、速やかに王妃の御許へ連行すること』
「…………」
剣呑な沈黙。
「……あの方が……本当に……」
呟きは風にかき消された。
* * * * * *
夜の野営地。テントの奥、ただひとり、ギルゼノールはマントを脱ぎ捨て、机に拳を叩きつけた。
「正義に剣を向けられる者こそ、真の騎士です」
かつて、少年だった殿下——いや、ディアルに問われた。
“騎士とは何か”と。
胸を張って答えた、若き日の己の言葉。
「……ふ、ふん……それが、今のこの状況にブーメランとして返ってくるとは……! な、なんという皮肉ッ!!」
額に汗を浮かべ、声がわずかに震える。
「主君に剣を向ければ、我が騎士団の名誉は潰える……だが……」
顔を上げる。目元は涙に濡れていた。
「……“推し”に刃を向けられるほど、わたくしは冷酷ではないのだッ!!」
半泣きで叫び、肩を大きく上下させながら息を吐く。
マントが落ち、仮面のように張り付いていた表情がほどけていく。
だが——まだ、答えは出ていなかった。
騎士として、忠節を尽くすべきか。
“推し”として、あの方の盾になるべきか。
葛藤は、なお深く、胸を焦がしていた。
* * * * * *
風が抜ける森の中。
昼前の光が木々の合間から差し込み、やわらかく葉を照らしていた。
その中で、アスランはひとり、落ち葉を踏みしめながら歩いていた。
なにかを探すでもなく、ただぶらぶらと、気の向くままに。
と、小さな鳴き声が耳に届く。
くぅん、と弱々しく。
視線を落とせば、白っぽい毛並みの子犬が一匹、木の根元で縮こまっていた。
「……お~、ワンコ! 親は? いないのか~?」
しゃがみ込み、手を伸ばす。
子犬は警戒しながらも、尻尾をふるふると揺らした。
アスランはにっこり笑って、そっと撫でる。
「よーしよしよし、いい子だな~。……おまえ、かわいすぎんだろ……」
そのまま地面に座り込んで、草の上でじゃれる。
アスランの笑い声が、森に溶けていく。
だが次の瞬間、子犬が突然キャンキャンと甲高く吠え始めた。
「えっ、どうした?」
ぴたりと空気が変わる。
風が止み、冷たい気配が背後に立ち込める。
振り向いたアスランの視線の先、森の奥から黒い影が現れた。
異形の魔獣——毛並みは乱れ、目は赤く濁り、四肢には禍々しい魔力の痕。
「っ、ワンコ……!」
アスランはすぐさま子犬を抱き上げ、背中を向けて庇う。
だが、武器も術式展開用の魔導具も持っていない。
魔獣は唸り声を上げながら距離を詰めてくる。
「やば……どうしよ……」
そのとき。
風を切って、別の足音が駆け込んできた。
「アスラン!!」
ハルカだった。
息を切らし、手には一枚のスクロールを握っている。
「下がって! その子を守ってて!」
叫びながらスクロールを展開し、短く呪文を唱える。
魔獣の胸元に淡い光が走った。——弱点を突いた魔術が、見事に命中する。
魔獣は絶叫とともに後退し、やがて地に崩れ落ちた。
静寂が戻る。
ハルカはアスランのもとへ駆け寄る。
「怪我は!?」
アスランは、地面に膝をついたまま、子犬を抱えていた。
その目には、涙が滲んでいた。
「……よかった……この子……無事で……」
その姿に、ハルカは胸を突かれる。
しゃがみ込み、アスランの手にそっと触れる。
「……無茶、しないでよ……」
「あなたが……また……いなくなったら、どうすればいいの……」
「怖かった……ほんとうに、怖かったの……」
声が震える。
その言葉が、静かに、アスランに届いていく。
アスランの視界が揺れる。
(……どうして、こんなに……胸が、痛い)
(守ったつもりだったのに。なんで……こんなに、あったかい……)
(……こんなふうに、誰かに……想われたのって——)
——その瞬間、空気が微かに震えた。
ふたりを包む空間が、かすかに脈打つ。
アスランの胸の奥に、熱い波が走る。
そして——
アスランは目を見開いた。
「……いまのは……?」
ハルカは、涙のまま微笑んだ。
「……わたしにも、わかったよ。いまの……“共鳴”だったんだよね」
その時、アスランの身体が、ぐらりと傾いだ。
「……アスラン!?」
慌てて駆け寄る私に応えることなく、彼はその場に崩れ落ちた。
目を閉じた彼の顔は、ひどく静かで——
まるで、眠っているだけのようで。
「ちょっと、嘘でしょ……!? ねえ、アスラン……!」
呼びかけに返事はなく。私は震える手で彼の背を支えながら、
あの瞬間に感じた“揺れ”が、ただの気のせいではなかったと確信していた。
* * * * * *
夢の中で、彼は自分の名を呼ばれていた。
――ディアル様。
その声に導かれるように、静かに、遠い記憶の扉が開いていく。
微笑む母の姿。
王城の石畳。
そして、誰かの手を取っていた――確かに温かい、その記憶。
* * * * * *
彼が目を覚ましたとき、木漏れ日が揺れていた。
夢を見ていたような気がする。遠い昔の記憶を辿るような、不思議な夢だった。
そして視界の先に、震えるほど愛しいものが映った。
小さな子犬を抱きしめ、泣きながらこちらを覗き込むハルカ。
その瞳には、涙の光。
まるで迷子の少女のように、心細げに揺れている。
「……ねえ、どうして泣いているの?」
低く、包み込むような声。
そこにはアスランの軽さは微塵もなく、代わりに——確かな気品と、深い愛情が宿っていた。
彼はゆっくりと起き上がり、ハルカの前に身を寄せる。
「そんな顔……君には似合わない」
伸ばされた指先が、ハルカの頬をなぞり、そっと涙を拭う。
それはまるで、壊れものを扱うような、丁寧でやさしい仕草だった。
「泣かせたままにできるほど、私は無粋ではないよ」
ハルカは、へたり込んだまま、じわじわと後ずさる。
「……えっ? えっ……!? だ、誰……!?」
完璧で、気品に満ちていて。だけど、ちゃんと——私だけを見ていた。
(まって、むりむりむり。何この“ディアル様モード”……!)
(理性が飛ぶ。これ、乙女ゲーのラストスチルでしか見ないやつ……!)
(……ほんとに……ほんとに……)
「ディアル様……っ!!」
しまった、と思ったときにはもう遅かった。
自分の口から漏れた“その名”に、ハルカの脳内は真っ白になる。
(……やばっ……! なに叫んでるの私……!)
焦って視線を彷徨わせた瞬間——
「……キュゥン」
間の抜けたような、けれど絶妙なタイミングの鳴き声が空気を和ませた。
思わず、ふたりともそちらを見る。
ディアルは目を細めて、ハルカの腕の中にいる子犬へと手を伸ばす。
「ふふ……君は本当に、いい子だね」
そう言って子犬の頭をそっと撫でる。指先は驚くほど優しく、気高く、けれど確かに命に触れていた。
そのまま、彼はゆるやかに視線を戻す。
そして、優しく微笑む。
「……君の口から、その名が出るなんて」
ふっと、柔らかく微笑みながらも、視線は真っすぐに私を見つめる。
「ハルカ、君の心はきっと、もう気づいていたんだね。
夢の中でも、私のことを——呼んでくれたのかい?」
その指先が、そっと私の頬を撫でる。
涙の雫を、まるで宝石を扱うようにそっとぬぐって。
「ありがとう。……もう大丈夫。私はここにいるよ」
まるで、お姫様になったみたいだった。
乙女ゲームでも、ここまで完璧なスチルはなかった。
あまりに甘くて、優しくて、心が追いつかない——
柔らかな微笑。けれど、その瞳は鋭く、私の心を射抜いてくる。
(まって……ほんとに無理……なにこの破壊力……)
完璧で、気品に満ちていて。だけど、ちゃんと——私だけを見ていた。
(あ、やばい、これ……)
——意識、持ってかれるやつ。
私の視界が、真っ白になった。




