第41話 感情に呑まれた世界で
ライエルの言葉が、耳の奥に残っていた。
「だからこそ、今は——もう少しだけ、信じてくれ。あいつのことも、俺のことも。……そして、お前自身のことも」
あの時の目を、私は忘れられない。
強くて、優しくて、でもどこか寂しげで。
(“あいつ”って、誰のこと……?)
ライエルはきっと、知っている。
“アスラン”という存在の裏側を。
そして、それを隠している。
(……彼は、私を守るために言わなかった。でも——)
この夜が終われば、アスランは死ぬ。
それだけは、確かな未来。
私はもう何度も、この日を繰り返している。
でも、まだ“真実”には届いていない。
だから——私は走った。
* * * * * *
夜の街を駆け抜け、私はこれまでとは違う道を選んだ。
これまではアスランの背を追うだけだった。
でも今夜は、先回りする。
見えなかった時間を暴くために。
(……たしか、このあたりで姿を見失っていた)
路地裏に身を潜め、静かに息を潜める。
闇に目を凝らしながら、わずかな気配を探る。
すると——
「……っ、あれは——」
アスランの背が、ゆっくりと建物の影に吸い込まれていく。
その先には、人気のない旧教会跡。
私は建物の陰から、それを見つめた。
刹那——黒衣の人影が、音もなくアスランに近づく。
振り返る暇もなく、彼は術式に囚われた。
術式が光を帯び、アスランの身体がぴくりと震える。
「まさか……!」
私は飛び出そうとして、思わず足を止めた。
それは、暴走ではなかった。
魔力が暴れているのではなく、封じ込められている。
(……違う。これは、誰かが意図的に——)
次の瞬間、彼の身体が崩れ落ちる。
静かに、抵抗の言葉も叫びもなく。
私は、声も出せなかった。
* * * * * *
視界が、ゆがむ。
空気が歪み、鼓動が耳の奥でうるさく響く。
(……来る。回帰——)
でも、今回は違った。
これまでにない、強烈な痛み。
身体の奥から焼かれるような、破裂するような感覚。
目の奥が潰れそうに痛い。
喉の奥から血の味がする。
(これ……私……)
意識が遠のく直前、私は願うように呟いた。
「……戻らなきゃ……まだ……助けられる……」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
——そして。
私は、目を覚ました。
(……ここは?)
どこか見覚えのある坂道。けれど、いつもより空が暗い。
橙色に染まる雲と、足元に伸びた長い影。
(……夕方? 昼じゃ、ない……)
脳が現実を追いかけきれず、思考がもつれる。
そして気づく——
(……アスランが、いない)
何度も繰り返してきた“戻り”。
そのたびに、すぐ隣には、彼の姿があった。
けれど今回は……誰もいない。
(これって、本当に“あの日”なの?)
少しずつ感じ始める違和感。
風の匂い、通り過ぎる人の声、遠くで響く鐘の音——
微妙に、でも確実に、何かが違っている。
限界は近づいているのかもしれない。
もう、あの夜には戻れないのかもしれない。
それでも——
(まだ終わってない。まだ、あの人を救える……)
私は立ち上がった。胸の奥に残る痛みを抱えたまま。
* * * * * *
夕暮れの街。坂道の途中で立ち尽くしたまま、私は震える指先で胸元を握りしめた。
(……アスラン、どこ……?)
戻れたかどうかも確信が持てない。もしまた間違っていたら——
そんな不安を振り払うように、私は駆け出した。
* * * * * *
そして。
曲がり角を抜けた先、あの姿を見つけた。
——アスラン。
夕暮れの逆光に照らされ、彼がゆっくりと歩いている。
「アスラン……!」
言葉を探す暇もなく、私はその背に向かって駆け出していた。
「アスランっ!」
振り向いた彼の目が、驚きで見開かれる。
「え、ええと……どうしたの、ハルカちゃん?」
その戸惑いすら愛しくて、私は思わずその腕をつかんだ。
「……よかった……ほんとに……生きてて……」
この温度、この声。この瞬間に、何度だって辿り着きたかった。
けれど——
(まだ、終わってない)
彼を守るには、あの場所には近づかせてはいけない。
私はすぐに顔を上げ、周囲を見渡した。
その時だった。
「ッ、アスラン、下がって!」
闇の中から、何かが飛び出す気配。
私の手が彼の腕を引いたのとほぼ同時に、見えない魔力の槍が地面を穿つ。
瓦礫が砕け、煙が巻き上がる。
「何、これ……っ!」
「ハルカちゃん……! 危ない!」
攻撃は一度では終わらなかった。
さらに迫る気配——
「ようやく見つけた……あなたが“鍵”だったんですね。ハルカさん」
その声と共に、闇の奥から一人の男が歩み出る。
黒衣をまとい、乱れた髪の奥の瞳が、狂気に染まっていた。
——シェイド。
王立魔導研究所所属。ノアの部下であり、優秀な術式研究者のはずの男。
その面影は、もう残っていなかった。
「……あなたの“魂の波形”が、大きく揺れていた。
術式の痕跡も、感情の座標も————。
……あなたが鍵なら、確かめる価値がある」
術式が浮かび上がる。
それは殺意を宿した陣。逃げ場は、もうどこにもなかった。
私の背筋に、氷の刃が這い上がる。
(……もう、間に合わない——)
術式が、放たれる——その瞬間。
眩い光と共に、魔法陣が炸裂した。
鋭く練り上げられた干渉術式が、シェイドの構築を一瞬で打ち消す。
空気が跳ね返り、粉塵が舞った。
「間一髪、だね」
頭上から、静かに降ってくる声音。
風に乗って現れたその姿に、私は目を見張った。
白衣を翻し、淡い青緑の髪が夕風に揺れる。
銀灰の瞳が、まっすぐ私を捉えていた。
——ノア。
「まったく……厄介ごとには事欠かない。……でも、間に合ってよかった」
私の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
その姿を見たとたん、胸の奥に溜まっていた何かが決壊する。
「ノアっ……!」
気づけば私は、ノアの胸に飛び込んでいた。
彼は少し驚いたように肩を揺らしたが、すぐにその背で私を受け止めてくれた。
「ふふ……そんな顔されると、英雄気取りになっちゃいそうだよ」
息がかかるほど近くで囁かれて、私はくしゃりと笑った。
隣で横たわっていたアスランがむくりと身を起こし、ぽつりと呟く。
「かっけ――……え? なに? ヒーロー登場なの!?」
ずれたテンションに、緊張がわずかにほぐれる。
(……間に合った。今度こそ——)
けれど、まだ終わりじゃない。
ノアの視線が、シェイドを射抜くように見据えた。
「シェイド。君の暴走は、ここまでだ」
風が止む。
空気の張りつめた気配の中で、ふたりの術者が対峙する。
この夜、最後の決着が始まろうとしていた——。




