第93話 守ると決めた場所
隠れ里の道を進むうち、ふいに足元に何かが飛びついてきた。
「……スフレ?」
白い毛並みを揺らして駆け寄ってきたのは、あの子犬だった。
ノアはしゃがみ込み、そっとその頭に手を置く。
「……覚えていてくれたのかい?」
優しく微笑むと、スフレは尻尾をぱたぱたと振って応える。
そこへ、ぱたぱたと駆け寄ってくる小さな足音。
「わぁ……お兄ちゃんの髪、すごくきれいな色……!」
目を輝かせたリゼが、ノアの髪に視線を注ぐ。
「……ありがとう」
少したじろぎながらも、ノアは冷静を装って返した。
スフレとリゼに導かれるように、ノアは再び歩き出す。
* * * * * *
「ま〜〜っ! えらいシュッとした兄ちゃんやなぁ!」
元気な声とともに、オバサンヌ=デシマルがどこからともなく現れた。
目を丸くしてノアを見つめ、その腕をぐいっと引っ張ろうとする勢いだ。
「うちの里に、こ〜んなハイカラな兄ちゃん来るなんて珍しいで! あんた、誰かの知り合いなん?」
ノアは少し面食らいながらも、「……通りすがりの協力者」と無難にかわそうとした。だが——
「……あんた、ハルカの男でしょ?」
横から割って入ったのは、赤髪を揺らしたエレナだった。腕を組んだまま、真顔でじっとノアを見つめている。
ノアはわずかに眉を上げたあと、飄々とした口調で返した。
「そうだよ?」
あまりにもさらりと言われて、一瞬その場の空気が止まる。
「は、はぁ!?」と、おばちゃんが素っ頓狂な声を上げる。
ノアは微笑みすら浮かべず、淡々と続けた。
「ただ、今は“そうじゃない”かもしれないけどね。彼女がどう思ってるかは……わからないから」
その声には寂しさでも未練でもなく、ただ事実だけを語るような静かさがあった。
「なにそれ……」とエレナが呆れたように鼻を鳴らす。
「めんどくさい男だわ、ほんと」
「よく言われる」
軽く肩をすくめるノアに、今度はおばちゃんがじっと目を細めて彼を見上げた。
「……ハルカちゃん、見る目あるんかないんか、よう分からんわ」
「どっちに転んでも、おかしくはないと思う」
やれやれといった顔で答えるノア。その飄々とした態度に、おばちゃんも思わず吹き出した。
「まぁ、アンタみたいなんが来てくれるなら、あの子も安心やわ。……って、あの子なら倉庫の方——」
「もう、おばちゃんったら。倉庫じゃなくて聖都よ、聖都」
エレナが呆れたように突っ込みを入れた瞬間、ノアの動きがわずかに止まった。
「……聖都?」
声は落ち着いていたが、指先がほんの少しだけ揺れていた。
おばちゃんが「あら、知らんかったん?」と目を丸くする。
「ハルカちゃん、病気のヴィスくんの看病で聖都に行ったんやで。仮面の梟くんたち一緒に。ちょっと前に出発してもうたわ」
「……そう、だったんだ」
ノアは小さくつぶやいた。唇がごくわずかに引き結ばれる。
(会えると思っていたのに。……けど)
それ以上、何も言わずに顔を上げたその瞳には、変わらぬ静けさが戻っていた。
「……なら僕は、僕にできることをするよ」
その言葉に、エレナがほんの少しだけ、視線を柔らかくした。
「ふーん。意外と素直じゃん、あんた」
「そう見えるなら、君の目が優しいんだよ」
肩をすくめるノアに、おばちゃんが笑いながら背中をポンと叩いた。
「まあまあ、こっちは任せとき。あの子が帰ってきたとき、立派な隠れ家になってるよう頑張ってるさかいな」
そのとき、澄んだ声が背後からかかった。
「失礼、ノア殿ですね? こちらにいらしていたとは」
振り返ると、金茶色の髪を結い上げた青年が、静かな笑みを浮かべて立っていた。
フィリオ=セリオス。
魔導防衛を担当する参謀であり、数日前、聖都行きの出発直前に魔導通信で連絡を交わした相手だった。
「先日の助力、誠にありがとうございました。おかげでヴィス殿の状態も、なんとか安定しています」
フィリオが丁寧に一礼するのに、ノアも軽く頷いた。
「……あれで移動中は持つはずだ。君がきちんと調整してくれていれば、だけど」
「その点はご安心を。術式の展開速度、干渉率ともに計算内です」
「……なら良かった」
エレナが目をぱちくりと瞬かせ、おばちゃんも首をかしげる。
「えっ、知り合いなん? なんか難しい話してはるけど」
「研究者って、やたら小難しいことを語り合いたがるのよね……」
エレナが呆れ顔でぼそりと漏らすと、スフレが「わんっ」と短く鳴いてノアの足元にじゃれついた。
ノアはその毛並みをひと撫ですると、静かに言った。
「彼女がここにいないと聞いて、少し迷った。でも、来たのは会うためだけじゃない」
「……あん?」
エレナが眉をひそめると、ノアは前を見据えたまま、淡々と語る。
「王妃軍との交戦で、“沈黙の帳”が破られたと聞いている。場所が割れた今、再襲撃の可能性は高い。現在の仮結界じゃ、迎撃も抑止も不十分だ」
フィリオがすぐに頷いた。
「現状の補修は急造で、持って一ヶ月程度。しかも強力な追跡術式には耐えられません」
ノアの声が少しだけ鋭くなった。
「だったら急がないと。ここがまた狙われたら、今度こそ持たない。
だから僕にできることをするよ。それが彼女を守ることにつながるなら——」
そこまで言いかけたところで、ノアは一瞬だけ言葉を止めた。
そして、小さく笑った。
「……別に感謝してほしくてやるわけじゃないから、気にしなくていいよ」
おばちゃんは「まあ……ええ男やなあ」と感心し、エレナは少しだけ頬をそらしながら、そっぽを向いた。
「……ほんと、あんたらってわかりにくいわね」
スフレが「わんっ」と短く鳴き、ノアの足元にぴたりと寄り添った。
そこへ、フィリオがふと思い出したように言う。
「……そういえば、後日で構いませんが。地下神殿の件も、改めてご意見を伺いたいと思っています」
「地下神殿……?」
ノアが眉をひそめる。
フィリオは穏やかな口調で答える。
「拠点再建築の中で発見された遺構です。現在、調査と分析を進めているのですが——」
「……なるほど。興味が湧いたよ。時間ができたら、見せてもらえるかな?」
「もちろん」
ノアは視線を遠くへ向けた。
淡い陽光の中で、仮住居の合間を忙しなく動く人々の姿が見える。
その中に、彼女の姿はない。けれど——確かに、彼女の意志は残っている。
「……少しは、僕もこの場所に、役立てるといいんだけどね」
静かな決意と共に、彼は歩を進めた。




