未来の二人に(2)
「こんにちは――」
夏のある日、先輩の家を訪れた。今日はデートの約束を取り付けていた。
「いらっしゃい」
玄関先で最初に迎えてくれたのは、先輩の父親だった。あの日――先輩が彷徨って海へ向かった日――を経て、今では半ば両親公認の仲になった。今でも信じられない気持ちだ。
「上がっていかないかね?家内がアップルダンスで買ってきたケーキがあって――」
「あ、いえ……その」
……むしろ、何やら気に入られたらしく、たまに会う度に自分が所属していた天文部のことやら将来のことやら根掘り葉掘り聞かれて若干気まずい。
「お父さん!――もう、ごめんね。透也くん」
背後から先輩が姿を見せた。夏らしく、薄青のフレアワンピースだ。
「こんにちは。今日は同行者がいますよ」
僕は持参したキャリーケースを開けた。先輩と一緒に助けたオッドアイの白猫は、成長した姿を見よと言わんばかりに先輩の元へ駆け寄った。
「わっ――アルくん?」
アルを抱き上げた先輩が驚きの声を上げた。
「本当に大きくなったね。育ってるとは思ってたけどびっくり」
「間違いなくアルですよ。別の猫にすり替えたりしてないですからね」
今の先輩には成人猫としての姿を届けることはできない。彼女がアルの姿を見たのは、僕の部屋に来た時が最後だ。だが――
「うん――うまく言葉では説明できないけど、確かにアルくんだよ。分かる」
そう言いながら、胸元の猫を撫でる先輩。
視力を失った人は、触覚や聴覚が研ぎ澄まされるという。あるいは、あの雪の日以来、先輩とアルは見えざる何かで結ばれているのかもしれない。でも、理由は何でも良かった。
「先輩、そろそろ――」
「うん。そうだね」
アルを再びケースにしまうと、僕は先輩の手を取った。
「行きましょう」
先輩の手を引きながら歩く。もちろん車道側に僕が立ち、地面の凹凸にも注意する。
改めて視覚障害者――そして彼らと行動を共にする立場になると、身近な『障害』の多さに驚かされる。
点字ブロックは自転車で塞がれ、歩道には店の看板や商品がはみ出し、蓋のない側溝がそこらじゅうにある。
もっとも、段差については意見が様々だそうで、身体障害者にとっては車椅子の移動の障害になるが、視覚障害者にとっては知らぬ間に車道に出てしまうことを防げるため、必要という考えも多いらしい。
誰しも、自分がその立場に置かれるまで想像もできない状況というものがある。そのために、腹を割って話すことが必要なのだ。
先輩の家から1時間は歩いただろうか。海浜公園に到着した。あの夜、二人で「きぼう」を見上げた場所――そしてあの日、先輩を追って来た場所だ。
前々から、今日はここへ来ることを約束していた。
冷たい風と身が凍るような潮水が印象に残ってるが、今日は陽光の下、穏やかな海風が優しく肌を叩く。
視界が失われた彼女にも、夏の潮風と寄せる波の音はしっかり届いているだろう。
「海辺、歩きませんか」
「うん」
頷いた彼女の手を取りながら、僕は浜辺への階段をゆっくり降りた。
既に海開きは済んでいて、海水浴客が歓声を上げている。
「靴、脱がない?」
先輩の提案に、僕はすぐ同意した。靴と靴下を脱ぐと、二人で波打ち際を裸足で歩く。
熱すぎず、柔らかな砂で、足裏が心地よかった。浜辺はむやみに走るより、ゆっくり踏みしめて歩くべき場所なんだと思う。
「そうだ、アルくんも」
「そうですね」
キャリーケースを開けると、アルはゆっくりと浜辺へ歩み出た。猫は水を怖がるものだが、不思議とこの猫はそんな素振りを殆ど見せず、むしろ興味津々といった様子で大海原を眺めている。
「アルくんには、生まれて初めて見る海なんだね」
「猫語を聞けたら、感想を聞きたいですね」
二人でくすりと笑う。
「あのね……」
先輩がゆっくりと話を切り出した。
「やっぱり特別支援学校へは転校せずに、今の学校で頑張ってみようと思う」
「それって――」
先輩が微笑んだ。
「うん。これからもよろしくね」
繋いでいた手に、わずかに力がこめられるのを感じた。
「特別支援学校の先生にも直接会って聞いてみたんだ。就職には強いけど、進学は普通高校と差はないんだって」
それは僕も鞆浦先生から聞いていた。むしろ大学進学率は1割もないのが現状だという。
「私ね、先生を目指そうと思うの」
「先生――いいですね」
視覚障害の教師。言わずもがな平坦な道ではない。だが――
「今は全盲者向けの「ソーシャル・ビュー」って言う美術鑑賞が存在するんだって。ただの解説じゃなくて、作品前で晴眼者とやりとりしながら作品を『鑑賞』していく。私も全く知らなかったんだけどね」
見えざる作品の『鑑賞』。それは先輩の好きな西洋史や西洋美術に限らず、一緒に眺めた遥かな星空に対しても可能に違いない。
「見える人とも見えない人とも、たくさん共有していきたい。そして、その喜びや素晴らしさを他人に教えられる人間になりたい」
「先輩ならきっとなれますよ。応援してます」
僕はそっと先輩の手を握り返した。
「ありがとう――それに、何よりこの高校で卒業したいから。もしかしたら今年の卒業は難しいかもしれないけど、たとえ1年留年したとしてもそうしたい」
先輩の学力ならば本来は赤点での留年はあり得ないが、全盲という大きなハンディキャップを抱えている。近年はなるべく留年はさせない風潮らしいが、先輩の場合は特殊な事情だけにどうなるか分からない。
「分かりました。もし留年してしまったら、一緒に卒業ですね。それも悪くないかも」
「なるべくそうしないよう、頑張るよ。忘れてるかもしれないけど、これでも先輩なんだから」
腰に手をやって軽く胸を張る彼女が、たまらなく愛らしかった。
「そういえば、透也くんは進学希望の大学や学科はもう決まった?」
「はい。地元大の――医学部です」
「あれ、理工学部だったはずでしょ。宇宙開発に係わる夢は……」
そう、図書室で打ち明けたように、理工学部を目指していた。先輩と出会うまでは――
「目標が、出来たんです。宇宙開発よりも大きな夢をかなえること」
え?と先輩は聞き返した。
「再生医療を学びたいんです。いつか、先輩の目に再び光を取り戻すために」
先輩が息を呑んだ。両手を伸ばし、僕の顔にそっと触れる。頬から顎へ、指を滑らせる。
光の届かない彼女の眼に、小さく涙が浮かぶのを見た。
「……それまで透也くんの顔、ずっと心の中で記憶しておくよ。絶対忘れないから」
「次に見たとき年老いてても、落差でガッカリしないでくださいね」
冗談めかして言ったが、先輩は本気のようだった。
「透也くんは透也くんだから。おじさんになってもお爺さんになっても……」
まるでプロポーズみたいな言葉に僕はどきまぎした。そうだ、伝えるとしたら今しかない。
「あの、望先輩」
「最初に出会った日――星を見る理由、先輩から聞かれましたよね」
「うん。ホーキング博士の言葉、だったよね。『足元ばかり見ずに、星を見上げなさい』だっけ」
「はい。その言葉には、続きがあるんです」
「続き?」
僕は彼女の両手を握った。
「2番目に、仕事を諦めないこと。仕事は生きる意義と目的を与えてくれるから。そして最後は――」
その台詞を口にするのは、流石に恥ずかしかった。でも、この場で伝えることに決めていた。
「幸運にも愛を見つけられたなら、それを決して離さないこと」




