月下美人(6)
羽織っていた上着を先輩に着せて、僕たちは浜辺に身を寄せ合って座っていた。吹き寄せる海風は冷たいが、それがより一層、すぐ隣にいる彼女の温もりと生を僕に実感させた。
本当に良かった――この人が生きていてくれて。
先輩の父親には既に連絡済みだ。間もなく、車で迎えが来るだろう。
満月の明かりが、僕たちを照らし続けている。
「アイラブユーを『月が綺麗ですね』って訳したのって夏目漱石だっけ」
先輩がぽつりと呟く。
「それ、作り話だって説もありますね……でも、そう言ってもおかしくないと思います。だって、月を眺めるのって素敵ですから。明治の文豪もきっと同じ気持ちでいたと信じてます」
先輩がゆっくり頷いた。海に浮かぶ月を眺めつづけている。今はもうその形も分からない。だがその光だけは微かに届いているようだ。
「そうだね……本当に、月が綺麗」
今のはどちらの意味としてだろうか。でもそんなことはどうでもよかった。
「ユアーズを『死んでもいいわ』って訳したのは二葉亭四迷だっけ……あ、今言うと洒落にならないね」
「ダメですよ、死んでもいいなんて。そればっかりはどんな文豪だろうと誰だろうと許さないですよ」
冗談めかしたつもりだったけれど、先輩はまた泣き出しそうな表情になった。
「うん……ごめんね、透也くん」
先輩がそっと僕の腕に触れる。そのまま、なぞるように手元へ這わせると僕たちは互いの指を絡めた。
「お見舞いに来てくれた時にちゃんと指切りして約束したのにね。必ず連絡するって」
「いえ――そんなこと気にしないでください」
わずか数ヶ月で視界がほぼ失われてしまう衝撃。彼女の身上を思うと微塵も責める気になれない。むしろ――
「僕の方こそ……一緒に目のこと、お願いしていたのに。こんなことになるなんて」
願いは叶う方が少ない。奇跡は起こらないが故に奇跡。それは十分に理解している。それでも二人の祈りは天に届いてほしかった。二人でもっと一緒に見て回りたいものは山程あった。
何十年先、年老いるまでとは言わない。せめてあと数年でも病が待ってくれたら。
先輩はゆっくりと首を振った。
「お願いの効果はあったよ」
え、と僕は先輩の方を振り向いた。
「この場所であのとき願ったのは眼のことだけじゃない。透也くんともっと一緒にいたいなって、そうお願いしてたんだよ」
「僕と――」
思わぬ言葉に、心がじんわりと熱くなる。あの直後に僕の告白を受け入れてくれたとはいえ、そこまで願っていたとは予想外だった。
「それを忘れて私が自棄になったから――『きぼう』を捨てるなって……そう神様が怒って、私が死んじゃう前に透也くんを寄越してくれたんだよ。きっと」
そうかもしれない。失明の運命はたとえ生まれつき定まっていて変えられなかったのだとしても、彼女の生命がここで終わらなかったことは、あのときの願いが通じたのかもしれない。
その理屈が正しいかどうかじゃない。そう信じることがきっと正しいのだ。
「――そういえば、透也くんに図書館でおすすめされた小説『火星の人』、感想まだ言ってなかったよね」
「あ――はい」
今日図書室に行ったとき、既に返却されていたのを思い出した。ちゃんと読了してくれていたのだ。
「地球から2億キロ以上離れた水も酸素も無い砂の大地で独りぼっち。生きていることさえ伝えられない。それに比べたら、透也くんがこうして隣にいてくれるだけで、ずっと私の方が恵まれてるんだね」
「先輩――」
僕が口を開きかけた矢先、先輩はすっと顔を近づけた。
「ちょっと。ついさっき名前で呼んでくれたでしょ」
うって変わって拗ねたような口調で言う先輩に、僕は思わず声が上ずった。
「あ、いえ……さっきはその場の勢いでつい」
「ちゃんと呼んでよ。でなきゃもう1回海に身投げしちゃうから」
妙に真に迫っている口ぶりに、意外に本気なのではと思ってしまった。
「そ、それは困ります――望……先輩」
「そういうところは妙に頑固なんだね、透也くん。初めて知ったかも」
先輩が薄く微笑む。久しぶりに先輩の笑顔を見た気がする。
そう、見たかったのはこの笑顔だ。初めて天文部の部室の前で出会った日の表情。
いや――どこか泣き笑いに見えたあのときの微笑みよりも、今の方が希望に満ちている気がする。
「まだ恥ずかしくて躊躇っちゃいますけど……これから何度も呼ぶ機会はありますから。先輩と一緒に生きて」
「うん――そうだよね」
その台詞と同時に、僕の身体にふっと重みと温もりが押し寄せる。気づくと彼女の腕が僕の背中に回っていた。先程とは逆に、力強く抱きしめられる。
まだ乾かぬ互いの服越しに鼓動を感じる。彼女の、生命の鼓動。
「ありがとう――透也くん」
そう。宇宙の星を一緒に眺める機会は失われようとも、これから彼女と生きていくのだから。
 




