EMOTION(3)
「え?」
僕は思わず聞き返した。
「行かなかったというより、入らなかったというべきかな。それこそ入り口の目の前まで行ったから」
「……直前でやっぱり無理と思って、引き返したんですか」
いざ目的の場所を目にして、怖くなったというのは十分あり得る。彼女の口ぶりからすると初めてのことなのだから。
「うーん、合ってるような合ってないような……」
先輩は躊躇っていたが、意を決したように口を開いた。
「ちょうどその時にね、入れ違いに入り口から出てきたの――白杖ついてサングラスかけた男の人と女の人が」
「それって――」
視覚障害者のカップルだろう。考えてみれば、障害者であれ、そうしたホテルを利用するのはあり得ることだ。
「それを見て彼が言ったの――『なにあれ気色わりぃ』って」
僕は息を呑んだ。その台詞が、隣にいた彼女に刺さったことは想像するまでもない。
「本当に、嘲るような言い方だった」
ふと見ると、先輩は拳を握りしめていた。そんな姿を見たのは初めてかもしれない。
「その言葉で一気に冷めてね。『帰る』って宣言してそのまま一直線に帰宅しちゃった。凄い後ろから引き留められたけど、無理やり振り解いて」
僅かに苦笑を浮かべる先輩。彼女の膝上で撫でられ続けているアルが、顔をふいと彼女に向けた。金色と青色の瞳は、先輩をただ不思議そうに眺めている。
彼女の目のことを知らされていなかった彼の不幸なのだろうか。彼の立場からすれば、特に悪意はなく、かなり理不尽に感じたかもしれない。
いずれにせよ、念願の彼女と事に及ぶ直前で逃げられた恨みは想像以上に深いのだろう。同じ健康な男子高生としてその気持ちも若干分からなくはないが。
「その後すぐに、別れることになったの。向こうは必死に『何でだ』って執拗に言ってきたけど。今考えたら、あそこで一線越えなくて正解だったと思う」
先輩は膝上でアルを撫で続けている。
「……斎藤先輩には病気のことは話さなかったんですね」
「部屋に入ってから話そうと思ってた。結果的にその機会は来なかったけどね」
先輩の病のことを知ったとしたら、どう反応したのだろうか。適当に相槌を打ってその場をやり過ごして、事に及ぶ方を何より優先しただろうか。何事もタイミングというのは分からないものだ。
ただ、平然と障害者を侮蔑する言葉を吐いたり、後輩の僕に一方的に因縁をつけたりするあたり器の大きい人間ではないだろうし、先輩に相応しい人かと言われると怪しい。
きっと先輩の選択は正しかったと思うし、それを試す機会を与えたのは神様の計らいかもしれない。
「ホテルの一件も、他の人には秘密にしてるんですか」
「親しい子には話してるよ。視覚障害者の件でどうこうというのは言ってないけどね」
それを詳しく話すと自身の病気のことにも話が及びかねないからだろう。
しかしそうなると、彼は客観的に見れば、ゴールの直前で何らかの不手際をやらかした挙げ句、一方的に振られた哀れな男と見られてるのかもしれない。あの逆上ぶりはそれに対する怒りもあるのだろう。かといって僕に当たられても困るが。
「あれ以来、誰かに話すことがいっそう怖くなったの。どんな反応されるのかなって。だから――」
先輩は静かに僕に目を合わせた。
「だから、あれ以来パートナーも断ってきたの」




