後編
曰く、エマは僕との顔合わせの前に、僕のうちの店──国内外にいくつかある支店ではなく本店の方──に何度か訪れたことがあったらしい。
宝石だけでなく、それに関わる様々な知識も学んで初めて一人前の宝石商である、という彼女の父親の教えの元、将来のための勉強に来ていたそうだ。
……まあ、結論、そこで僕を見つけた、と。
顔を合わせたわけでも、ましてや言葉を交わしたわけでもない。
ただ、その当時、既に店頭に出ていた僕の商談を、端から見ていただけ。
だというのに、そこから帰宅したその足で、彼女は父親に僕との婚約を希望した。
どんな行動力だよといった話だが、親たちの方は、元からあわよくばそういう話に持ち込みたいなという希望は持っていたようだ。
僕たちの年齢差を考えてとりあえず話を保留にしていたらしい彼らは、最初こそエマの突然の要求に戸惑ったものの、それに乗らない手はないと諸手をあげて賛成するようになり、あっという間に話がまとまって──。
「──今に至るってことなのよ」
「……」
彼女が話している間中、僕は半ば呆然としながらそれを聞いていた。
が、そこでエマが話を締めてしまったために、僕はいよいよぽかんとしてしまう。
「……え、それだけ?」
「? 何が?」
「いやだから、……そんな、たったそれだけのことで、自分の結婚なんて一大事を決めちゃったの、君?」
「そうよ?」
僕の困惑に満ちた疑問にも当たり前のように頷いて、エマは夢見るように目を細めた。
「それだけなんて言うけれど、あなた、本当に格好よかったんだから。大物商人相手にも、一歩も引かずに交渉しているジョンを見てね、ああ、今すぐこの人を私のものにしなくちゃって思ったの」
「……」
……そこまで評価してもらえて嬉しいというべきか、決断と行動の甚速さが恐ろしいというべきか。
「……それ、いつの話?」
「あの顔合わせの、半年くらい前ね」
「それじゃ、話が出てから、随分短期間で顔合わせまでこぎ着けたんだね」
「商人ですもの。速さが命よ」
「……なるほど」
軽く胸を張るエマに、苦笑する。
……どおりで、惚れられた理由なんて身に覚えがないはずだ。
「じゃあ、最後に一つ。どうしてそれを、最初から僕に教えてくれなかったの?」
「ああ、それはだって──、」
エマは頬杖をついた右肘を左手で支え、含み笑いながら僕の顔を覗き込んできた。
「あなた、十歳の小娘に真っ向から結婚を迫られて、素直に了承してた?」
「……」
……ぐうの音もでない。
「ふふ、家のせいってことにしとくのが、一番都合がよかったのよ」
「……それで、そのまま時期をみてるうちに、ねたばらし自体を忘れてたんだ?」
「そういうこと。そこはほんとうに、申し訳なかったわ。このタイミングで訊いてもらえてよかった」
「……いやまあ、それはもういいんだけど」
……確かにそこまでされなければ、当時の僕がエマとの婚約に諾を言うことはなかっただろう。
「君が年頃になるまで待つっていう選択肢はなかったの?同じ年の差でも、エマが今ぐらいの年齢になってれば、さほどの抵抗もなかったと思うんだけど」
「あら、言ったでしょう。私はとにかく、早くあなたが欲しかったのよ。それにあなただって、私と一緒に少しでも長い時間を過ごせてよかったでしょう?」
「……なるほど。……ふふ、ああなんだ。結局、君のおかげで全てがうまくいってるってことなのか」
なんだかおかしくなってきた僕が、くつくつと喉の奥で笑うと、エマもふわりと笑みを浮かべた。
「私は運がいいの。なんたって、こんなに広い世界から、たった一人のあなたを見つけることができたんですもの。私ほど幸運な人間はいないわ」
「……僕も、君に見つけてもらえてよかったよ」
心底嬉しそうに微笑まれては、こちらまで嬉しくなってしまう。
エマに笑い返しながら、僕はふと思い付いてポケットの中を探った。
「──ねえ、エマ。ちょっと手出してくれる?」
「? ええ、どうぞ?」
差し出された手に、そっとポケットから取り出した布張りの小箱を乗せる。
エマは不思議そうに僕を見上げた。
「これ?」
「プレゼントだよ。開けてみて」
「……」
言われるがまま、かけられていた細いリボンをほどいて小箱を開けたエマは、中に入っていたものを見て、大きく目を見開いた。
「まあ……っ!」
感嘆の声に、思わず微笑む。
「ほんとは夜に渡そうと思ってたんだけどね。なんだか、今つけてほしくなったから」
「驚いた……これ、ラピスラズリ?」
「そう。君の瞳と、同じ色」
小箱の中に収められていたのは、蔓薔薇の細工が施された銀の台座に、丸くカットした大粒のラピスラズリをはめ込み、たくさんの小さな真珠と一緒に細身の鎖に通したネックレスだった。
全体的に繊細で優美な印象だが、不純物のない、吸い込まれそうに深い瑠璃の青は、エマの強烈な美貌にも負けない存在感を放っている。
「ちょっとだけ、こっちに前屈みになってくれる?」
「ええ……」
かがんだエマの細い首に腕を回してつけてやると、思った通り、それはしっくりと美しくエマに馴染んだ。
「うん、よく似合ってる」
「……素敵。こんなに綺麗なラピスラズリ、初めて見たわ」
「ふふ、君にそこまで言ってもらえると、自分で買い付けに行った甲斐があったよ」
自分の目利きとエマの反応の両方に満足して何度も頷く僕に、彼女は少し驚いたような顔をした。
「え、わざわざあんな遠くまであなたが行ったの?これ、リリーズ産でしょう?」
「おお、流石。うん、そうだよ。どうしても君の瞳と同じ色のものが欲しかったから、直接産地まで行って原石から仕入れて来ました」
今日のこの日に間に合うようにと、数ヵ月前からじっくり準備していたが、思っていた以上にいい出来になってくれた。
エマに気づかれないように動くのは少し骨が折れたものだが、それもいい思い出だ。
「……とっても、嬉しいわ。ありがとうジョン」
とろけるようなその笑顔が見られただけで、全てが報われる。
「どういたしまして。普段使いも出来るデザインにしてるから、使ってね」
「ん。本当は、お礼にキスくらいしたいのだけど。今は紅が移るといけないから、またあとでにするわ」
「はは、楽しみにしとく」
悪戯めいたエマの言葉にくすくすと笑いながら、僕はソファから立ち上がってエマの横にしゃがみこんだ。
エマのソファの肘置きに両肘を付き、彼女の顔を見上げて笑みを深める。
「でもね、それだけじゃないんだよ。石の裏、見てみてごらん?」
「裏?……あら」
裏返してそれを見たエマは、ふふ、と嬉しそうに微笑んだ。
──エメリーンへ
尽きることのない幸福と、限りない愛を君へ
ジョナスより──
台座の裏にあるメッセージは、僕が手づから彫ったものだ。
大切そうにその文字を指でなぞるエマを、僕はにこにこと眺めた。
「ベタだけど、だからこそなんかいいでしょ?僕から君への、愛の証ってことで」
「私だけのネックレスなのね……。あなたのことを驚かせてたつもりが、さっきから私が驚いてばかりだわ……」
「おや、仕返し成功?」
「ふふ、そうね」
楽しそうに頷いて、エマは僕の頬に手を添える。
「あなたが私のことを大好きなんだってことが、改めてよく分かってとっても嬉しい。本当にありがとう、ジョン」
「いーえ。……なにせ、幼女趣味だなんて言われてもめげずにいられるくらい、僕は婚約者サマに惚れぬいてますので」
「あら、根に持つわね」
「そりゃあね……」
肩をすくめてため息をつく僕に、エマがにやりと笑った。
「でもあなた、大切なことを一つ間違えてるわよ」
「……?」
言われた意味がわからずに首を傾げると、添えられた手でむにむにと軽く頬をつままれる。
「もう、ジョンったら。私はもう、あなたの婚約者じゃないでしょう?」
「……っああ、そうか」
思わず、目を見開いた。
次いで自然と笑み崩れる僕の胸を、どこかくすぐったい感情が満たしていく。
そうだった、今日からエマは、僕の婚約者じゃなくて──、
しかし、僕がその言葉を言い直そうと息を吸った次の瞬間、こんこん、と軽やかなノックの音が響いた。
はっと我に返り、エマと一緒に立ち上がって振り返ると、濃紺のお仕着せに身を包んだ女官がしずしずと入ってきて頭を下げる。
「──そろそろ、お時間でございます。花嫁様のお支度はよろしいでしょうか?」
「ええ、大丈夫です」
軽やかなエマの言葉に、女官はにっこりと頷く。
「それでは、移動の準備が整いましたら予定の場所までお越し下さい。先導の者が控えておりますので」
僕たちはそれぞれ了承の返答をして、一礼してから退室する女官を見送り、お互い顔を見合わせた。
「女官さんに、先を越されちゃったわね」
エマがにやにやと見上げてくるので、僕は少し苦笑う。
「……面目ない」
「ふふ、そんなところも可愛いわよ。じゃあ、行きましょうか」
「あ、ちょっと待って」
くすりと笑ってそのまま外へ出ていこうとするエマを、慌てて呼び止めた。
どうしたの?と振り返る彼女に、僕は満面の笑顔を向ける。
「すごく、綺麗だよ。──僕の奥さん」
改めて、心からの賛辞とともにそう呼ぶと、エマは花が綻ぶように艶やかに笑った。
本当に、今日のエマの美しさは、常にもまして格別だ。
結い上げたプラチナブロンドには、パールの花飾りが編み込まれ、揃いの細工のイヤリングが耳元で可憐に揺れている。
純白のドレスは、胸元に細やかな銀糸の刺繍をあしらった優美なもので、ビーズを織り込んだ薄いレースが幾重にも重ねられたスカート部分は、エマが動くたびにきらきらと神秘的に煌めいた。
そして、強く輝く瑠璃色の瞳とラピスラズリのネックレスが、それらを絶妙に引き立てている。──まさに、美の女神もかくやといった、神々しささえ感じさせる麗しさである。
「うふふ、ありがとう。あなたも世界で一番素敵よ、私の旦那様」
「……うん、ありがとう」
例えエマには遠く及ばなくとも、他の誰でもない彼女の目にだけ、少しでも格好よく映っていたらいいと思う。
少しはにかんでから、僕はよし、と気合いを入れた。
「それじゃあほんとに、そろそろ行こうか」
「ええ、行きましょう」
差し出す僕の手に、エマのそれが重ねられる。
僕たちは笑いあって、歩きだした。
*****
──その日、街の真ん中にある教会で、一組の夫婦の誕生を祝う、祝福の鐘が鳴り響いた。
夢のように美しい花嫁と、彼女を支える優しい笑顔の花婿の姿に、参列者たちは皆見惚れ、彼らの幸せを心から祈ったという。
最後までお読みくださって、本当にありがとうございました!