↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
勿怪の幸せ  作者: 小鳥遊 佑鷹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/10

第一話

エアコンの低い稼働音が、静かな部屋に絶え間なく響いていた。

潮見倫太郎はパソコンの前に座り、

寝起きのままの髪を、ぽりぽりと掻きながらキーボードを叩いていた。

色褪せたTシャツにハーフパンツ。無精ひげも整えていない。

人と会う予定のない休日など、いつもこんな状態だ。

本人の格好とは対照的に、部屋はきれいに片付いていた。

飲み終えたペットボトルが転がっていることもなければ、脱いだ服が床に積み上がっていることもない。机の上にあるのはパソコンとマグカップ、それから必要最低限の小物だけだった。

窓の向こうでは、真夏の東京の空が白く焼けている。

向かいの建物の室外機が、低く唸りながら熱い息を吐き続けていた。

外に出る気には全くならない。

倫太郎が再び画面へ目を戻したところで、机の上のスマートフォンが震えた。

表示された名前を見て、手が止まる。

「……叔母さん?」

珍しい。

故郷に住む父方の叔母だった。

「もしもし」

『倫太郎?』

「うん。久しぶりだね。どうしたの」

少し間があった。

『あの、落ち着いて聞いてね。兄さんが、さっき倒れて……今、病院に運ばれたから』

「……親父が?」

倫太郎は椅子から身体を起こした。

「事故か、何かあったの?」

『まだ先生から詳しいこと聞けてないの。私も今、病院に向かってるわ』

「……分かった」

『また連絡するから』

「うん」

電話が切れた。

倫太郎はしばらくスマートフォンを握ったまま、動かなかった。

それからパソコンを閉じた。

会社に連絡を入れる。

着替えと必要最低限の仕事道具を鞄に詰めこみ、シャワーを浴び、髭を剃る。

航空券を調べている途中、もう一度スマートフォンが震えた。

叔母だった。

「もしもし」

返事は、すぐにはなかった。

その沈黙だけで、なんとなく分かった気がした。

『……倫太郎』

「……うん」

『兄さん、……亡くなったよ』

エアコンの音が静かに聞こえていた。

倫太郎は何か返事をしようとした。

けれど口から出たのは、

「……そう、なんだ」

それだけだった。

『……兄さん、家に帰してあげるけど、いいよね?』

「うん」

『こっちは私がやっておくから。倫太郎は気をつけて帰っておいで』

「ごめんね、急いで帰るよ、ありがとう」

電話を切る。

握ったままのスマートフォンへ視線を落とした。

「親父……」

言葉にしても、正直実感はなかった。

しばらくしてから、倫太郎は押し入れから黒い喪服を取り出し、荷物をひと回り大きな鞄に詰め直した。

飛行機を降り、さらに港から船へ乗り継ぐ。

甲板へ出ると、海面の照り返しに目を細める。

潮を含んだ生ぬるい風が頬を撫でた。

東京とは違う暑さだった。

倫太郎は手すりに腕を預け、遠くの水平線を眺めた。

海の匂いが鼻の奥に広がっていく。

この海を渡るのは何年ぶりだろう。

学生の頃は毎日のように見ていた。

島には大学がなかったため、朝の船で本土へ渡り、夕方の船で帰っていた。

『何のために大学まで通ってるんだ、お前は』

ふと、父親の怒鳴り声が頭の中に蘇る。

「……はぁ、なんで今それ思い出すんだよ」

倫太郎は俯き息を吐いた。

やがて海の向こうに島が見えてきた。

山の緑。

海沿いに並ぶ家。

小さな港。

トンビたちが自由に空を飛んでいる。

何も変わっていない。

そう思った。

けれど船が近づくにつれて、少しずつ違和感が増えていく。

昔あったはずの看板が錆びだらけになっていた。

港の近くに並んでいた店のいくつかは、シャッターを下ろしている。

行き交う人も、少なくなった気がした。

「こんな静かだったかな」

船が港へ着いた。

荷物を持って降りると、少し離れたところにいた老人が倫太郎を見て足を止めた。

「もしかして、倫太郎坊か?」

「……はい」

「やっぱりそうか。宗一郎さんとこの」

倫太郎は苦笑した。

「もう三十五なんですよ。坊はやめてください」

「わしから見りゃ、いくつになっても坊なんだわ」

そう言ってカッカッと老人は笑った。

その笑顔に軽く頭を下げ、倫太郎は歩き出した。

そうだった、こういうところだった。

自分が誰であるかを、誰かが知っている。

誰の息子で、どこの家の人間なのかまで。

昔は、それがひどく窮屈で退屈だった。


潮見家は、昔とほとんど変わっていなかった。

大きな木造の家。

瓦屋根と広い玄関。年月を重ね黒く艶の出た柱。

倫太郎にとっては見慣れた実家だったが、久しぶりに見ると、妙に大きく感じた。

玄関を開ける。

「おかえり」

叔母が立っていた。

「……ただいま、お久しぶりです」

その言葉を口にするのも久しぶりだった。

「久しぶりね、すっかり大人になっちゃって」

叔母は少し疲れた顔で笑い、それから奥へ目を向けた。

「……兄さん、中にいるよ」

「うん」

倫太郎は靴を脱いで揃えた。

座敷に敷かれた布団。

その上に父が横たわっていた。

倫太郎は何も言わず、その横へ座った。

昔はあれだけ大きく見えた身体が、不思議なくらい小さく見える。

顔を覗き込む。

眠っているようにも見えた。

「……親父」

当然、返事はなかった。

倫太郎はしばらくそこに座っていた。

やがて視線を上げる。

隣の仏間に、見慣れた位牌があった。

母のものだった。

倫太郎は仏壇の前へ移動し、静かに手を合わせた。

目を閉じる。

「ただいま……」

確か母が亡くなったのは、自分が七つか八つの頃だった。

母の顔は今でも覚えている。

笑い声も匂いも。

親父と喧嘩して家を飛び出したとき、迎えに来てくれたことも。

ベソをかきながら、母の温かい手を握って歩いた帰り道も。

けれど、亡くなった日のことになると、記憶はひどく曖昧だった。

線香の匂い。

煙でうっすら白く霞んだ部屋。

知らない大人たちの声。

そして、ただただ泣いていた自分。

倫太郎は目を閉じたまま、ふと思った。

……あのとき、親父は何をしてたんだろう。

思い出せない。

あの頃の自分には、母を失ったことしか見えていなかった。

ゆっくり目を開ける。

「……今度は親父か」

静かな家の中で、その声だけが残った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。