第一話
エアコンの低い稼働音が、静かな部屋に絶え間なく響いていた。
潮見倫太郎はパソコンの前に座り、
寝起きのままの髪を、ぽりぽりと掻きながらキーボードを叩いていた。
色褪せたTシャツにハーフパンツ。無精ひげも整えていない。
人と会う予定のない休日など、いつもこんな状態だ。
本人の格好とは対照的に、部屋はきれいに片付いていた。
飲み終えたペットボトルが転がっていることもなければ、脱いだ服が床に積み上がっていることもない。机の上にあるのはパソコンとマグカップ、それから必要最低限の小物だけだった。
窓の向こうでは、真夏の東京の空が白く焼けている。
向かいの建物の室外機が、低く唸りながら熱い息を吐き続けていた。
外に出る気には全くならない。
倫太郎が再び画面へ目を戻したところで、机の上のスマートフォンが震えた。
表示された名前を見て、手が止まる。
「……叔母さん?」
珍しい。
故郷に住む父方の叔母だった。
「もしもし」
『倫太郎?』
「うん。久しぶりだね。どうしたの」
少し間があった。
『あの、落ち着いて聞いてね。兄さんが、さっき倒れて……今、病院に運ばれたから』
「……親父が?」
倫太郎は椅子から身体を起こした。
「事故か、何かあったの?」
『まだ先生から詳しいこと聞けてないの。私も今、病院に向かってるわ』
「……分かった」
『また連絡するから』
「うん」
電話が切れた。
倫太郎はしばらくスマートフォンを握ったまま、動かなかった。
それからパソコンを閉じた。
会社に連絡を入れる。
着替えと必要最低限の仕事道具を鞄に詰めこみ、シャワーを浴び、髭を剃る。
航空券を調べている途中、もう一度スマートフォンが震えた。
叔母だった。
「もしもし」
返事は、すぐにはなかった。
その沈黙だけで、なんとなく分かった気がした。
『……倫太郎』
「……うん」
『兄さん、……亡くなったよ』
エアコンの音が静かに聞こえていた。
倫太郎は何か返事をしようとした。
けれど口から出たのは、
「……そう、なんだ」
それだけだった。
『……兄さん、家に帰してあげるけど、いいよね?』
「うん」
『こっちは私がやっておくから。倫太郎は気をつけて帰っておいで』
「ごめんね、急いで帰るよ、ありがとう」
電話を切る。
握ったままのスマートフォンへ視線を落とした。
「親父……」
言葉にしても、正直実感はなかった。
しばらくしてから、倫太郎は押し入れから黒い喪服を取り出し、荷物をひと回り大きな鞄に詰め直した。
飛行機を降り、さらに港から船へ乗り継ぐ。
甲板へ出ると、海面の照り返しに目を細める。
潮を含んだ生ぬるい風が頬を撫でた。
東京とは違う暑さだった。
倫太郎は手すりに腕を預け、遠くの水平線を眺めた。
海の匂いが鼻の奥に広がっていく。
この海を渡るのは何年ぶりだろう。
学生の頃は毎日のように見ていた。
島には大学がなかったため、朝の船で本土へ渡り、夕方の船で帰っていた。
『何のために大学まで通ってるんだ、お前は』
ふと、父親の怒鳴り声が頭の中に蘇る。
「……はぁ、なんで今それ思い出すんだよ」
倫太郎は俯き息を吐いた。
やがて海の向こうに島が見えてきた。
山の緑。
海沿いに並ぶ家。
小さな港。
トンビたちが自由に空を飛んでいる。
何も変わっていない。
そう思った。
けれど船が近づくにつれて、少しずつ違和感が増えていく。
昔あったはずの看板が錆びだらけになっていた。
港の近くに並んでいた店のいくつかは、シャッターを下ろしている。
行き交う人も、少なくなった気がした。
「こんな静かだったかな」
船が港へ着いた。
荷物を持って降りると、少し離れたところにいた老人が倫太郎を見て足を止めた。
「もしかして、倫太郎坊か?」
「……はい」
「やっぱりそうか。宗一郎さんとこの」
倫太郎は苦笑した。
「もう三十五なんですよ。坊はやめてください」
「わしから見りゃ、いくつになっても坊なんだわ」
そう言ってカッカッと老人は笑った。
その笑顔に軽く頭を下げ、倫太郎は歩き出した。
そうだった、こういうところだった。
自分が誰であるかを、誰かが知っている。
誰の息子で、どこの家の人間なのかまで。
昔は、それがひどく窮屈で退屈だった。
潮見家は、昔とほとんど変わっていなかった。
大きな木造の家。
瓦屋根と広い玄関。年月を重ね黒く艶の出た柱。
倫太郎にとっては見慣れた実家だったが、久しぶりに見ると、妙に大きく感じた。
玄関を開ける。
「おかえり」
叔母が立っていた。
「……ただいま、お久しぶりです」
その言葉を口にするのも久しぶりだった。
「久しぶりね、すっかり大人になっちゃって」
叔母は少し疲れた顔で笑い、それから奥へ目を向けた。
「……兄さん、中にいるよ」
「うん」
倫太郎は靴を脱いで揃えた。
座敷に敷かれた布団。
その上に父が横たわっていた。
倫太郎は何も言わず、その横へ座った。
昔はあれだけ大きく見えた身体が、不思議なくらい小さく見える。
顔を覗き込む。
眠っているようにも見えた。
「……親父」
当然、返事はなかった。
倫太郎はしばらくそこに座っていた。
やがて視線を上げる。
隣の仏間に、見慣れた位牌があった。
母のものだった。
倫太郎は仏壇の前へ移動し、静かに手を合わせた。
目を閉じる。
「ただいま……」
確か母が亡くなったのは、自分が七つか八つの頃だった。
母の顔は今でも覚えている。
笑い声も匂いも。
親父と喧嘩して家を飛び出したとき、迎えに来てくれたことも。
ベソをかきながら、母の温かい手を握って歩いた帰り道も。
けれど、亡くなった日のことになると、記憶はひどく曖昧だった。
線香の匂い。
煙でうっすら白く霞んだ部屋。
知らない大人たちの声。
そして、ただただ泣いていた自分。
倫太郎は目を閉じたまま、ふと思った。
……あのとき、親父は何をしてたんだろう。
思い出せない。
あの頃の自分には、母を失ったことしか見えていなかった。
ゆっくり目を開ける。
「……今度は親父か」
静かな家の中で、その声だけが残った。




