噂〈創Ⅰ〉
「その記事にスキをしたら絶対にいけないんだって」という噂が流れてきたのが今年の夏だ。
最初は誰も信じていなかった。
「また怪談かよ」「インプレッション稼ぎだろ」
「こういうの好きなやついるよね」
そんなコメントがSNSには並んでいた。
問題の記事は、ごく普通のエッセイだった。タイトルは『夏の匂い』。作者名は空欄。プロフィール画像もなく、フォロー数はゼロ。投稿日時だけが「2026年7月7日 午前3時33分」と表示されている。
内容は驚くほど平凡だった。
子どもの頃に見た入道雲の話。風鈴の音の話。
亡くなった祖母が作ってくれた麦茶の話。
文章は少し古めかしく、どこか懐かしい。読んだ者はみな、「悪くない記事だった」と言う。
ただ、一つだけ奇妙な点があった。
この記事に「スキ」を押した人間が、次の日から記事を書けなくなるのだ。
最初は偶然だと思われていた。
ある人気クリエイターは、「何を書いても空っぽに感じる」と言い残して更新を止めた。別の作家は、「文章が頭の中から消えていく」と投稿し、そのままアカウントを削除した。
十人、二十人と増えていくうちに、誰かが気づいた。
彼らは皆、『夏の匂い』にスキを押していた。
「呪いの記事だ。」
そんな言葉が広まった。
けれど、人間というのは不思議なもので、「絶対に押してはいけない」と言われると、どうしても押したくなる。
僕もその一人だった。
その記事を見つけたのは、眠れない夜のことだ。
確かに懐かしい文章だった。
読み終える頃には、遠い昔の夏休みを思い出していた。蝉の声、汗ばんだ手、祖父の家の畳の匂い。忘れていたはずの記憶が次々と蘇ってくる。
気づけば僕の指は、「スキ」のボタンの上にあった。
やめておけ。
そんな声が頭のどこかで聞こえた気がした。
だが、僕は笑ってしまった。
たかがネットの怪談だ。
そして、ボタンを押した。
「ありがとうございました。」
画面の中央に、小さくそう表示された。
おかしい。
NOTEの「スキ」は、そんなメッセージだっただろうか。
違和感を覚えたのは一瞬だった。すぐに画面は元に戻り、何事もなかったように記事が表示されている。
僕はそのまま眠りについた。
翌朝、一つの記事を書こうと思った。
けれど、何も書けなかった。
書きたいことがないわけではない。
言葉だけが、出てこない。
頭の中には文章がある。なのに、キーボードに触れた瞬間、それが砂のように崩れて消えてしまうのだ。
三日後、僕はさらに奇妙なことに気づく。
『夏の匂い』の記事が、少しだけ変わっていた。
最後の一文が増えていたのである。
「三百七十四人目の夏を、ありがとう。」
そして、その下には見覚えのある文章が続いていた。
『文章を書くことが好きでした。』
それは昨日、僕が消してしまった下書きの冒頭だった。




