第八話「涙の任務」
夜の森は、静まり返っていた。
風の音すら、遠い。
ただ一つ――
足音だけが、確かにそこにあった。
(……いる)
お凛は、立ち止まる。
分かる。
気配で。
呼吸で。
“あの男”であることが。
「……出てきなさい」
静かに言う。
声は震えていない。
だが――
心は、揺れていた。
沈黙。
そして――
「……来たか」
影が、動く。
闇の中から、ゆっくりと現れる。
影丸。
いつもと同じ、無表情。
だが、その瞳は――
すべてを理解していた。
「……ええ」
お凛は短刀を構える。
自然と、そうしていた。
体が覚えている。
任務の動きを。
「任務か」
「……そうよ」
短い会話。
それだけで、十分だった。
もう、言葉はいらない。
だが――
それでも。
「……最後に聞くわ」
お凛が言う。
「逃げないの?」
「逃げない」
即答。
「……どうして」
「終わらせる」
その言葉に、
胸が強く痛む。
「……勝手ね」
笑う。
だが、うまく笑えない。
「全部、一人で決めて」
影丸は、何も言わない。
ただ、立っている。
まるで最初から、
こうなることを知っていたかのように。
「……行くわよ」
お凛が踏み込む。
速い。
迷いはない。
そう見える動き。
だが――
刃は、わずかに逸れる。
影丸の肩をかすめるだけ。
「……遅い」
影丸が言う。
その声は、いつも通り冷たい。
だが――
どこか、優しかった。
「……うるさい!」
再び踏み込む。
今度は鋭い。
本気の一撃。
だが。
受け止められる。
キィン、と音が響く。
「本気で来い」
「……!」
その言葉に、
何かが切れる。
「……できるわけないでしょ!!」
叫び。
そのまま、何度も斬りかかる。
速く。
強く。
だが――
すべて、受け止められる。
影丸は、一切反撃しない。
「……なんでよ!」
刃を振るいながら叫ぶ。
「なんで斬らないのよ!」
「……」
「任務よ!?私はあんたを殺しに来てるのよ!!」
涙が、滲む。
それでも止まらない。
「……分かっている」
影丸が静かに言う。
「なら――」
「それでも」
言葉が重なる。
「斬らない」
その一言で、
すべてが止まる。
「……どうして」
震える声。
刃が、わずかに下がる。
影丸は、少しだけ視線を落とした。
そして――
「お前だからだ」
その言葉に、
時間が止まった。
「……え?」
何を言われたのか、
理解が追いつかない。
「……意味、分かってるの?」
やっと出た言葉。
だが、声は震えていた。
「分かっている」
影丸は、まっすぐにお凛を見る。
逃げない。
逸らさない。
「お前は、迷う」
「……」
「それでも来た」
その通りだった。
「だから――」
ほんのわずかに間を置く。
「それを斬る理由にはならない」
意味が分からない。
分からないのに――
胸が、痛いほど熱い。
「……馬鹿じゃないの」
涙が、こぼれる。
「それじゃあ、あんた死ぬわよ」
「構わない」
即答。
「……なんでよ!!」
叫ぶ。
もう、抑えられない。
「なんでそんなこと言えるのよ!!」
涙が止まらない。
視界が滲む。
「私は……」
声が震える。
「私は……あんたを殺したくないのに……!」
その言葉が、
夜に響く。
沈黙。
長い沈黙。
そして――
「……なら」
影丸が、一歩だけ近づく。
「やめろ」
その声は、
初めてだった。
命令でも、冷たさでもない。
“願い”。
「……できない」
お凛は首を振る。
「そんなの、許されない」
「関係ない」
「あるのよ!」
涙が溢れる。
「私は忍なの!!」
その一言に、
すべてが詰まっていた。
掟。
生き方。
これまでのすべて。
影丸は、しばらく何も言わなかった。
ただ、見ていた。
泣きながら立つ、お凛を。
そして――
「……そうか」
小さく呟く。
その瞬間。
空気が、変わる。
「……来る」
「え?」
次の瞬間。
無数の気配が、一斉に現れた。
伊賀の忍たち。
完全な包囲。
「……!」
お凛の顔色が変わる。
「遅かったな」
影丸が言う。
まるで、それすら予測していたかのように。
「お凛」
背後から声。
「任務を遂行しろ」
冷たい命令。
逃げ場はない。
「……」
お凛の手が、震える。
短刀を握る手。
目の前には、影丸。
背後には、伊賀。
完全な地獄。
「……どうする」
影丸が、静かに言う。
その声には、もう迷いはなかった。
そして――
お凛は、
ゆっくりと刃を持ち上げた。
涙を流しながら。




