英雄の名の重さ
ルッツ16歳。訓練所3ヶ月目。均等裁定院長ヴェルナー・グラーンとの直接対面。第一章最終話。
訓練所にヴェルナー・グラーンが来たのは、卒業式の一週間前だった。
視察だと聞かされた。均等裁定院長が新兵訓練所を視察すること自体は珍しくないらしい。革命の次世代を確認する、という名目だ。
だが今回の視察には、別の目的があると俺は踏んでいた。
英雄の息子が新兵にいる。それがヴェルナーの耳に入らないはずがない。
◇
視察は訓練の見学から始まった。
新兵たちが術式演習をこなす様子を、ヴェルナーは訓練場の端から眺めていた。灰色の外套。白髪交じりの髪。革命記念日の演説で見た姿と同じだが、近くで見ると印象が違う。
目が冷たい。演説の時は群衆を見て熱を帯びていたが、今の目は品定めをする商人の目だ。新兵たちを一人一人、値踏みしている。
演習が終わり、整列した。ヴェルナーがゆっくりと列の前を歩く。
俺の前で止まった。
「ルッツ・エーベルハルト」
名前を知っている。当然だ。
「はい」
「少し話がしたい。構わないか」
命令ではなく、依頼の形を取っている。丁寧だが、断る選択肢がないことは双方分かっている。
「光栄です」
◇
訓練所の応接室。質素な部屋に、椅子が二つ向かい合わせに置かれている。
ヴェルナーは椅子に深く座り、俺を見た。
近い。この距離で見ると、年齢よりも老けた印象を受ける。目の下に疲労の影。唇の端に刻まれた深い皺。権力の頂点にいる人間の顔は、こういうものなのかもしれない。
「ヒルデの子か」
声は穏やかだった。演説の時のような張りはなく、素の声に近い。
「はい」
「お前の母は、私の最も信頼する戦友だった」
信頼する戦友。母の日記には、この男への不信が記されていた。「ヴェルナーが言う『必要な統制』とは何だ」。
だが今は、その言葉を表に出すべきではない。
「母のことを覚えていてくださり、ありがとうございます」
「覚えている。忘れられるものではない」
ヴェルナーの目が、一瞬だけ揺れた。何かを思い出している。後悔か、郷愁か、それとも別の何か。
「ヒルデは、革命の魂だった。彼女がいなければ、最後の砦は落とせなかった。彼女の犠牲の上に、今のこの国がある」
犠牲。その言葉に嘘はないだろう。だが「犠牲の上に」という表現が引っかかる。犠牲を土台にして建てた国。土台の上に何を建てたかが問題だ。
「お前は母に似ている。目が同じだ」
グスタフ教官にも同じことを言われた。母の目。金色の、まっすぐな目。
「お前の訓練成績を見た。中の上だな。悪くはないが、突出してもいない」
「才能のある同期が多いので」
「謙遜か。それとも本気で隠しているのか」
心臓が跳ねた。この男は、グスタフ教官以上に鋭い。
「的撃ちのデータを見た。二十メートルでの焼き込み深度が、魔力量に対して不自然に高い。誰かに指摘されたか?」
「グスタフ教官から、少し」
「グスタフか。あいつはヒルデの部下だった。甘い目で見ているかもしれんが」
ヴェルナーは腕を組んだ。
「エーベルハルト。お前に才能があるのは分かった。だがそれ以上に、お前には素質がある」
「素質、ですか」
「人を観る目だ。ヒルデにもあった。人間の本質を見抜く目。それは魔法の才能よりもずっと稀有で、ずっと価値がある」
褒めている。だが同時に、測っている。俺の反応を、言葉を、目の動きを、すべて計算の材料にしている。
「お前に提案がある」
「何でしょうか」
「訓練所を卒業したら、私の下で学ばないか。均等裁定院の実務を見せてやる。この国がどう動いているか、中枢から見る機会を与える」
来た。
予想していた展開だった。英雄の息子を手元に置く。育てる。体制の代弁者に仕立てる。それがヴェルナーの狙いだろう。
だが同時に、これは俺にとっても好都合だ。
均等裁定院の内部。あの「教育配分基準」の文書が生まれた場所。体制の設計図が保管されている中枢。外からでは絶対に見えない構造が、中からなら見える。
獅子の口に、自ら入る。
危険だ。取り込まれるリスクがある。ヴェルナーは巧みな人間だ。近くにいれば、その論理に説得されるかもしれない。体制の内側には、内側なりの合理性がある。それに触れた時、俺の信念が揺らがないと言い切れるか。
言い切れない。
だが、退く選択肢はもうない。
「光栄です」
頭を下げた。
心の中で、別の言葉が流れた。
――獅子の口に入る。歯に気をつけろ。
ヴェルナーが微笑んだ。穏やかで、温かく、どこか寂しそうな笑みだった。
「ヒルデが聞いたら、喜んだだろうな」
その言葉が、本心なのか演技なのか。
分からなかった。この男は、本心と演技の境界が溶けている。嘘をつく時も本当のことを言う時も、同じ顔をしている。
それが最も危険な種類の人間だと、前世の経験が教えていた。
◇
応接室を出ると、廊下にグスタフ教官がいた。壁に寄りかかって腕を組んでいる。
目が合った。教官は何も言わなかった。ただ、一つだけ頷いた。
「気をつけろ」と言った夜の言葉を、繰り返すまでもないという頷きだった。
◇
卒業式の日、エミルが隣に立っていた。
「配属先、聞いたか?」
「均等裁定院の警護部門だ」
「マジかよ。俺は第四連隊。前線配備だ。別々か」
エミルの声に、落胆と安堵が半々で混じっていた。友人と離れる寂しさと、あの日の教室での亀裂からくる複雑な感情と。
「ルッツ」
「何だ」
「裁定院に行くなら、偉くなるんだろ。お前なら、上に行ける」
「どうだろうな」
「お前が上に行って、俺が前線で戦って。そうやって、二人で共和国を守ろうぜ」
エミルの目には、あの七歳の日と同じ光があった。曇りのない、信じる目。
その目を見て、嘘をつくのが辛かった。
俺が裁定院に行くのは、共和国を守るためじゃない。共和国の嘘を暴くためだ。エミルが守ろうとしているものを、俺は壊そうとしているかもしれない。
だがまだ、言えない。
「ああ。頑張ろう」
エミルが手を差し出した。俺はその手を握った。
温かい手だった。
前世では、誰かと手を握ったことなど思い出せない。握手という習慣がある世界なのに、三十一年間で一度もまともな握手をしなかった。
この手を、いつか振り払う日が来るのだろうか。
来ないでほしいと思った。だが、来るかもしれないとも思った。
訓練所の門を出た。首都の空は高く、冬の風が冷たかった。
振り返ると、訓練所の石壁の上に共和国の旗が翻っている。深紅に金の太陽。革命の象徴。
その旗の下で、俺は体制の中枢に足を踏み入れようとしている。
母さん。あなたが最後に書こうとした言葉を、俺はこれから探しにいく。
「もしこの国が、私の望んだものでなかったら——」
その先に何があるのか。
答えは、この国の中枢にあるはずだ。
これにて1章おしまいです。
2章からは戦闘シーンも入ってきます。




