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第53話「天使の夜明け」

 聖隷(せいれい)病院にたどり着くと、リリーナは即座に集中治療室へと運ばれた。

 俺はそれを見送った後、部屋の前に備え付けられた長椅子に座る。夜の病院は誰もいなくて。薄暗い中、「治療中」の赤い文字だけがぼんやりと光っていた。

 赤坂さんはリリーナをここへ運んだ後、「君がそばにいてくれ。彼女もそのほうがいいだろう」と一人、外へ出ていった。決して見捨てたわけではなく、彼の背中は「リリーナなら大丈夫だ」という信頼の表れを語っているように俺には思えた。


 どれだけ待っただろうか。

 時間にすれば一時間は経っていないのだろうけど、とてつもなく長く感じた。その時、赤いライトが消えて。白衣に身を包んだ医師が扉から出てきた。

 咄嗟に駆け寄った俺に医師は「手の施しようがない」と。一瞬、驚いたけど、その表情が苦笑に満ちていたから俺は違和感を感じて。


「どういう事ですか?」


「我々のやるべき事がないという事です。せいぜいベッドを用意するくらいですね」


 医師によると折れたらしい首は正常に繋がっており、治療の必要はないとのこと。念のため詳しく検査したが全く問題なく、いわゆる「お手上げ」状態らしい。

 ただ意識は戻っていないため、病室のベッドへ寝かされた。アグレスに首を絞められたあの時、本当に首が折れたように見えたけど、どうやって元に戻ったのかはわからない。もしかしたらリリーナには何か特別な力が宿っているのかも。

 でも過程はどうあれ彼女は無事だ。それだけで俺は十分だった。

 リリーナの可愛らしい安らかな寝顔を見ながら、俺は安堵のため息を吐いた。



 ◇ ◇ ◇



 頭を撫でられるのを感じて。俺は目を覚ました。

 寝ぼけ眼に飛び込んでくるのは、ぼんやりとした病室の景色。俺はベッドにうつ伏せになったまま眠っていたようだった。

 ハッとして顔を上げた時、そこには笑顔があった。

 窓から差し込む柔らかい朝日に照らされた女神。リリーナは上半身を起こし優しく俺の頭を撫でていた。


「こんなところで寝るな。風邪をひくぞ。映司」


「意識、戻ったんだな。本当によかった」


 リリーナは無事だ。そうはわかっていても意識を取り戻すまでは、どうしても不安が付きまとった。

 だけど、こうして煌めくサファイアの瞳を目の当たりにすると、心の奥底から安心感があふれてくる。

 その一方で俺の心を曇らせるどんよりとした感情が頭をもたげていた。彼女が強ければ強いほど、優しければ優しいほど沸き上がってくる無力感だ。


 気が付いたら俺は小刻みに震えていた。

 脳裏をよぎるのはアグレスによる襲撃の場面。ティナが俺を守って撃たれた瞬間。リリーナが首を絞められた時。桐生さんが身を挺して守ってくれた最後の瞬間。

 そして、すべてを闇に飲み込む死神の姿。

 

 俺は何もできなかった。ただ逃げただけだった。守られただけだった。

 

 笑顔から一転。重く沈むように視線を下げた俺の頭上に優しい声が響く。


「どうした? 私が寝ていた間、何かあったのか?」


「……桐生さんが、死んだ」


「……そうか」


「俺を守って、死んだんだ。お前が俺を助けてくれたあの後、ティナが死神になった。そして、桐生さんは俺を逃がすために自らを犠牲にして……」


 無力感という名の底なし沼に足を捕られている感覚。体が沈んでいくように気持ちがどんどん重くなるその時、俺を覗き込むサファイアの瞳に気が付いた。

 リリーナのその目は、すべてを見透かしているかのように俺には思えた。


「映司。君は自分のことを無力だと思ってる?」


「お前、読心術使えるのかよ。……あぁそうさ。俺はこれほど無力感を感じたことはなかったよ。俺に力があればティナも救えた。俺に強さがあればお前もこんな目に遭わなかった。桐生さんだって死ななかったかもしれない。俺は何もできないん……」


 話をしている途中で、目の前に綺麗な手が伸びてきたかと思うと突然、デコピンが俺の額を打ち抜いた。

 頭に響く痛みと驚きで、俺は額を押さえながら涙目で顔を上げる。


「おまっ、人の話聞けよ!」


「君は本当に何もわかっていないんだな。だから、馬鹿映司って言われるんだ」


 目に飛び込んできたのは、不甲斐ない俺を叱りつける怒りの表情ではなかった。

 もっと優しく柔らかで、全てを包み込むような女神の微笑みだ。


「私がアフトクラトラスの文字を書いたプラカードを持って立っていたのを覚えてる?」


「覚えてる」


「もしあの時、君がいなければ私は今頃、死んでいたかもしれない。最悪、誰の協力も得られず野たれ死んだか、死神に成す術もなく殺されているよ」


「でも、あれはたまたま会ったってだけで……」


「それじゃティナは? 君がいなければ彼女はあの笑顔を見せる事はきっとなかった。死神となった自分を思い出した時、彼女の心はズタズタに引き裂かれていたはずだ。そうならずにティナが気丈にも死神であることを受け入れ、それでもなんとかしようとしているのは君がいるからだ」


「それは……」


「赤坂や桐生は? 私がいなくてもおそらく銀狼は組織されていただろう。だが、死神に対して私という決め手がなく皆、奴に蹂躙されていたはずだ」


 その時、ふわりと俺の首元にリリーナの手が回される。

 そっと抱き寄せられ彼女の温かさが全身を包み込んだ。脳を揺さぶるのは、高鳴る心臓の鼓動と花のようにかぐわしい香り。


「君がいたから今の私がいる。ティナの笑顔がある。赤坂達が戦える。君は無力なんかじゃない」


 リリーナの言葉が俺の中を駆け巡った。

 不安感も無力感もすべてが消え去った。まるで心の闇を浄化されたような気分だった。


「君に会えて、本当によかった」


 思わず涙があふれてきた。何故なら彼女のその言葉は、俺が最も聞きたかった言葉だったからだ。

 俺はリリーナやティナに「この世界に来て良かった」と言って欲しかった。「俺に会えて良かった」って。後悔だけはしてほしくないって。

 リリーナの言葉が嬉しくてたまらくて。俺は泣きながら彼女の体を抱きしめた。

 


 ◇ ◇ ◇



 その後、赤坂さんが入室してきた。

 元気なリリーナの姿を見てわずかに頬を緩ませると椅子に腰かける。でもすぐにいつものリリーナいわく「冷徹鉄仮面」に逆戻りした。

 スッとリリーナに差し出したのは、スーツの胸ポケットから出した一枚の写真。

 俺をチラ見して「いいのか?」と問う彼女に赤坂さんは首を縦に振って。それは俺に見られても問題がないかもしくは、もう俺は部外者ではなくなったと判断されたということか。

 写真を見たリリーナの綺麗な眉がピクリと動く。一瞬、見せた鋭い表情にただならぬ気配を感じて、「怖いもの見たさ」の感情がわいてきた。それを察したのかリリーナは俺に写真をみせてくれた。

 

 まさにグロテスクの一言だった。

 写っていたのは、襲撃してきたと思われる男の口から奇妙な生命体が飛び出していたもの。それは細長く、大きさはちょうど喉を通る程度の太さで、先端に口のようなものがついていた。

 

「襲撃してきた敵部隊の死体から飛び出したものだ。その謎の生物は、死体から出ようとした瞬間を撃たれ、まるで幻だったかのように消えたそうだ。同様のケースが今回の襲撃で何件か出ている。リリーナ、君はどう思う?」


「私に聞く所をみると、赤坂も少なからず異質さに気が付いているという事か」


「御名答だ」


「これは蟲使いが使役する蟲だ。魔法(・・)により作成され生物の脳に寄生する。成長すると外へ飛び出し新たな獲物へ種を植え付ける」


「寄生された人間はどうなる?」


「作成者である蟲使いに操られる人形と化す。赤坂。君が危惧している通り、これは私が元いた世界の魔法技術だ」


 リリーナの言葉が意味するもの。それは彼女やティナ以外にもアフトクラトラスからきた人間がいるということ。考えてみればアグレスもそうだった。

 しかも襲撃してきた男に寄生していたという事は、首謀者が「リリーナと同じ世界」にいた人間だっていう可能性がある。無線でも聞いたけどあの施設の場所を知っているのはごく僅からしい。そのリリーナのいう「蟲使い」とやらがその中にいる。赤坂さんが危惧しているのはたぶんその点なんだろう。

 だってもしかしたら敵は……リリーナや赤坂さん達の仲間に潜んでいるのかもしれないから。


「どうやってこの世界に来たのかは知らない。映司達を襲った変態もアフトクラトラスの人間だった。私やティナ以外にも異世界の人間はいる。そして、その人物は施設の場所とティナの中に死神が眠っている事を知っている」


「今、菅原が食いついている。彼が行きつく先と、死神に関する情報を握っている人間を割り出せばかなり絞られる。恐らくその中に君の言う蟲使いとやらがいる事は間違いない」


「菅原一人で危険じゃないのか?」


「危険な任務だ。それは彼も承知でやっている。見つかったら殺される命がけの尾行任務だ。だが、彼ならやり遂げる。桐生さんを殺された無念さを味わっているのは、私だけではないからな」


「菅原と桐生は仲が良かったからな……」


「リリーナ。一つ聞きたい。もしその蟲とやらが憑りついた場合、助ける方法はあるのか?」


「分離する方法はない。私のような魔法使用者なら魔力で簡単に焼き殺すことは可能だが、この世界の人間には不可能な芸当だ。宿主は殺すしかない。そうしないと増殖の一途を辿るだけだ」


「そうか。ならばすべて打ち倒すだけだ。菅原から連絡が取れ次第、また来る。そこまで体力を蓄えておいてほしい」


 席を立ち背を向ける赤坂さん。

 その背中は俺が見たあの襲撃の時と同じだった。静かだけど激しい怒りを秘めている、そんな男の背中。

 リリーナはそれをじっと見つめて。


「赤坂、君はどうするつもりだ? もし蟲使いが上層部の人間なら、君はどういう行動を起こすつもりだ?」


 彼女の問いに赤坂さんの動きが止まる。出口の前に立つ彼は振り返ることなく、「決まっている」とだけ短く言った。


「この国に根付く闇は我々で葬らなければならない。ここからは狼が牙を剥く時だ」

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