佐山
翌日、珠保院と山千代のもとへ左衛門一人が参じてきた。その彼の姿を目撃した者たちは一様に驚いた顔を浮かべる。女中たちの一部には明らかに顔色を変え、さらに動揺する者までいた。
「面を上げよ」
馴染みの部屋に左衛門を通し、そこで珠保院たちと対面する。下座にて平伏する彼に主君が目を丸くして声を掛ける。
「左衛門よ、頭がツルツルではないか」
彼の君の率直な物言いに、傍にいた珠保院は思わず吹き出してしまった。
「頭を丸められたのですよ、殿」
幼い領主にすかさず説明をする。現在の左衛門は、剃髪して法衣を身に着けていた。あらかじめ話していた通り、昨日寺にて出家の手続きを済ませてきたのだ。
「これからは、佐山とお呼び下さいませ。殿の無事のご成長を祈願するために出家致しました。これからもお傍でお仕えいたす所存です」
佐山と名を改めた彼は、畏まった態度で主君に明瞭に誓約する。それを受け、山千代も「佐山、大儀である」と彼の誓いを真摯に受け入れた。
その二人の様子を黙って見守っていた。
佐山と目が合うと、彼は真剣な顔つきで僅かに頷く。
俗世から離れた身なら、今後のお見合い話から逃げ切ることができると、彼はあっけらかんと決断していた。
山千代君が無事に元服すれば、大人の支えは必要なくなる。あっても、相談くらいで済むだろう。完全に表舞台から消えても問題なくなる。
それまで彼は待つと言ってくれたのだ。
彼の気持ちがなによりも嬉しく、一番頼もしい支えとなってくれていた。
失ったはずの光を珠保院は再び得ることができた。
真冬の現在、とうとう緋田地の国でも初雪が降った。白い雪が布のように地面をうっすらと覆い、外の世界は一面白くなっている。
翌日にはすっかり晴れて透き通るような青い空が広がっているが、空気はとても乾燥していて刺すような冷気がとても厳しかった。
慮庵本人の予告通り、事件の三か月後に彼は病死した。
夫の広雅、それに続くように姑が亡くなり、さらに今回の舅の訃報。領主筋の者が相次いで亡くなり、珠保院は短い期間に葬儀ばかり取り仕切っている気がした。
身内を見送るという行為は、思いのほか心に負担がある。心にぽっかりと穴が空いたような虚脱感の中にいたときもあった。そんな自分を気遣い、冬を迎えるまで蛇のサンゴが月に一、二度遊びに来たり、子供たちが励ましの文を書いてくれたりしてくれた。なんて嬉しいことだろう。こうして支えてくれる者たちのお蔭で、深く落ち込まずに日々を過ごすことができた。
「珠保院様、佐山様が参られました」
彼の訪問があり、火鉢が用意されて温められた部屋に彼を案内していた。二人で暖を取りながら話を窺う。彼の用件のほとんどは、仕事ばかりだ。何しろ、彼には様々なことを任せていた。
出家したとはいえ、彼の働きぶりは以前と変わらない。ただ、実家を出て、佐和羅山近くに居を構えたようだ。彼の住まいを訪ねたことはないが、彼は通いの下人に家の世話をしてもらいながら、細々と暮らしていると話だけは聞いていた。
それに噂では、どうやら地元の庶民たちから、佐山という名前と、住んでいる近くの山の名前にちなんで、彼は「佐和羅さま」と呼ばれて親しまれているらしい。
外から来たばかりの佐山の耳が赤くなっている。剃髪した直後、地肌が見えた頭皮には今では短い毛がみっしりと生えている。手入れせずに伸ばしっぱなしの状態である。けれども、不精な短髪頭にも関わらず、彼の美貌もあって良く似合っていた。
湯気立つ温かい茶が女中によって運ばれて、佐山は湯呑を両手で包み込むように持つ。かじかんだ手を労わるように温まっている。
さすがに出家した彼に懸想する女子はいなくなったようだ。あれから女中たちの話題にも一切上らない。
身辺が静かになった彼に全く動揺することがなくなった。
勝手に出家した彼に対して、兄の角衛門は「全く、もう!」と激しく怒っていた時もあった。ところが時間が経った現在、すっかり忘れて機嫌を直していた。頭は悪くないのに鈍くて大まかな性格が兄の良いところでもあった。
「年越し前に無事に整地が終わって良かった。佐山殿、ご苦労でございました」
佐山に佐和羅山周辺の後始末を兄に丸投げしていたため、兄の下で働く彼はその整地の関係で多忙の日々を送っていた。
「はい。領民たちからも大変感謝されて、やりがいのある仕事でした」
彼は話しながら、こちらに笑顔を向ける。
麻生という強力な反対勢力がいなくなり、山千代と珠保院たちを中心とした政権は十分安定した状態を維持している。
果てしなく長く洞穴の中にいるような辛い時期もあった。真っ暗闇の中、足が竦むほどの困難な状況だった。
(でも、今の私には彼がいる――)
自分の確かな心の拠り所として、佐山はいつも傍にいてくれる。そして、自分の足りない部分を見事に補って支えてくれる。その彼の献身がどれほど有難く、嬉しい事か。
「ありがとう、佐山殿」
感謝を込めて慈しむように彼を見守っていると、彼はふわりと柔らかい笑みを浮かべる。
湯呑から離れた彼の手が、ゆっくりと珠保院の指先に触れてくる。
顔がいきなり熱くなり、慌てて彼を見る。
「さ、佐山殿……、誰かに見られたら」
小声で彼を咎めるが、「今はサエしかいない」と彼は嬉しそうに微笑んだまま気にせず開き直っている。
部屋の出入り口付近を見れば、彼の言う通りに閉じられた襖戸の前にサエ一人が静かに控えていた。彼女は珠保院の視線にすぐに気付くと、「私にはお構いなく」と頭を下げて、逆に縮こまっていた。
「ほら、大丈夫だろう」
佐山は楽しそうに目を輝かせて笑う。彼女に申し訳なく思いながらも、そんな彼に流されるように二人の距離は縮まる。彼の腕が珠保院の背中に労わるように回される。
「しばらく会えなかったから、次に会うまでの分まで触れておかないと」
「まあ!」
彼の甘い戯言がくすぐったいくらい可笑しくて、思わず吹き出してしまった。
お役目の話が終わった後、佐山の口調が砕けたものになっていた。サエがいる中、気恥ずかしいものがあったが、彼からの気持ちが直に伝わり、嬉しさと幸せで心が満ち溢れる。
こうして触れ合ってじゃれ合うことはあるが、以前のように道に外れた行為は全くなくなっていた。自分のことを慮って、危険な関係を彼は一切止めてくれたのだ。
絶え間なく微笑みが珠保院の口元に浮かんでいた。
「恥ずかしいけど、嬉しいわ」
そう正直に気持ちを伝えると、ますます彼は幸せそうに目を細める。
そんな睦まじい二人の逢瀬の時間は突然終わった。室外から近づく気配を感じて、慌ててお互いに離れていた。何事もなかったように二人に距離ができる。
「珠保院様、お客様が参られました」
訪問を告げる女中の声が戸を隔てて聞こえる。
「分かったわ」
落ち着いて返事をすると、傍にいる佐山を見つめる。彼も愛おしそうにこちらを見守ってくれている。限られた逢瀬の中でも、偽りのない言葉によって、確かにお互いの心は通じ合っていた。
(また、今度)
山千代の補佐である以上、二人の関係は絶対に秘密である。
彼に意味ありげに笑みを浮かべ、すぐに立ち上がる。その心はとても晴れやかであった。一点の曇りもない今日の空のように。
終わり
拙い点もあったと思いますが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
連載を追っていただき、大変励みになりました。




