44《たまには良いじゃない》
今日は珍しく予定が詰まっていない。久しぶりの遅い起床だ。
顔を洗ってリビングに入ると、起きた事に気付いた夏美が淹れているらしいコーヒーの香りが、心地よく鼻孔を擽る。
「おはよう……。夏美……他の……皆は……?」
「おはようございます。真明さん、相変わらず低血圧ですね。エリアスさんは今日は朝から両替所の視察、リアちゃんはインラウスさんと、獅冬さん所の応援に行くって聞いてます。セラスさんは子供達の所に行く約束してるそうです。晴彦は……なんて言うんでしたっけ、あの棘の出るやつ。昨日完成したから外骨格装甲服に取り付けるんだ! って、朝会った時からなんか張り切ってました」
「あぁ……パイルバンカーだったか……? 必要になるか分からんが……。なら、今日は一人で行くか……」
「私、付いて行きましょうか?」
「いや……今日は久しぶりに色々見て回ろうと思っているだけだからな。それにあいつらも居る。……大丈夫だ。」
喋っている間にも食卓の上には食事が並んでいく。
畑で収穫した小麦で作られた自家製のナンはこんがりと焼かれ、野菜と一緒に、じっくりと焼かれたタンドリーチキンの薄切りが挟まっている。
スパイシーなソースと瑞々しい野菜の食感、噛み締める程に肉汁が染み出るチキンと、それら全てを包み込む芳ばしいナン。とても美味い。
製粉は石臼型の魔道具で行なっている為、多少『ふすま』と呼ばれる小麦の表皮が混じっているが別に気にはならない。
この所、多忙を極めた俺は食事をあまり作れておらず、夏美に頼ってしまっている。このままでは腕が鈍ってしまうと思いつつも夏美の飯でも十分旨いのだ。そろそろこっそり張り合うのを止めて、夏美に頼ってしまえ、という悪魔の囁きが頭の中で響くが……駄目だ。頼られるのは嫌いではないが、頼り切るのは性に合わない。
「ご馳走様夏美、旨かった。着替えて行って来る。」
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トリトスがフェリアル商業都市に戻っていった日から一ヶ月と少しが経った。
年間を通じ、比較的過ごしやすい気候を保つティヴリスでも、寒さの厳しい時期に入ったが、肌を刺す様な寒空の下でも路上を行き交う人々の表情は明るく、活気に溢れている。
百名を越す難民達は初め、新しい土地に新しい仕事、そして新しい習慣と、新しい事尽くめの環境に戸惑っていたが、やがて落ち着きを取り戻し、生活にも慣れてきたようだ。最近では上空をドラゴンが飛んでいても、遠目に見る位では大きなリアクションを取る者は少ないと聞く。
インラウスは当初から率先して様々な仕事場を駆けまわり、今も正式には特定の職に就いていないが、防衛部隊と俺の秘書を兼任する様な形になっている。
血気盛んなイメージとは裏腹に気配りの出来るインラウスは今では難民達のフォローと希望の汲み取り役として無くてはならない存在だ。
そしてもう一つ。リアはもう自分の翼を隠す事をしなくなった。そのまま夏美の北隣の部屋に住み込み、やや危なっかしい面もあるが、家事やエリアスの補佐としての役割を必死にこなそうと頑張っている。
夏美も今まで歳の近い同性が少なかった事もあり、二人は姉妹の様に仲良くやっているが……。
夏美とエリアス、セラスにリアマーラ。美しい女性陣四人が楽しそうに話している風景は目の保養にはなるが、家の中に男が一人という状況は毎日続くとさすがに辛い。なんというか、お呼びでない感じがするのだ……お陰で最近俺は自室に篭りがちだ。
現在、難民の大部分は農業と建設業に従事し、変わり種な職種としては、手先の器用な者を集めて高所得者向け魔道具への金銀細工を施す部門が創設された。勿論その素材は鋳潰された各国の金貨銀貨だ。
大型倉庫を改築したマーケットと、外周部防壁に隣接する両替所の二箇所も商業経験の有る数名を割り振って稼働を始めている。
やっと形が整った、貨幣と小銃、弾薬包の生産現場など、機密性の求められる職種には元近衛から優秀な人材をリーダーとして選び出して任せている。
「農地の拡張は順調だな……」
薄々想像していたが、この世界に生きる民衆は殆どが第一次産業の従事者だった。
そして彼らが産出する穀物等の農作物、鉱石等の商品は権力者に安く買い叩かれる為、市場にも比較的、安価に出回る。最底辺だった貧民街の者を別とすれば、その日食べるだけなら民衆に大した金銭は必要ない。
そして第二次産業は一部の独占状態で、加工食品や布、金属製品は不可解な程に高価で、民衆に余裕が無ければ第三次産業も育たない、という悪循環を長年繰り返している様だ。
隣国サイラーク王国は広大な穀倉地帯を持ち、周辺各国にも穀物を輸出しているが、現状ではサイラークからの食料輸入を考える事は出来ない。安定した自給の為にも、もう少し国内の農地拡充を進めたほうがいいだろう。
農地から中心部へ戻る道すがら、ザッタールが倉庫の前で五人程の男達を相手に何やら話し込んでいる。
此処まで入ることが許されている事と、彼らの格好を見るにザッタール商会の新しい商人達だろう、自己紹介がてら少し話をしておこうと声を掛ける。
「ザッタール、仕事は順調か?」
「オ、オーナー!? は、はい……物資の輸送は終わってますし、魔道具の売れ行きも順調そのものですが……」
「なんだ、問題か」
「いやぁ、問題って程では無いんですけど……、その……給金を全額マール通貨で欲しいって言われてて……」
ザッタール商会はトリトスの紹介で人員を増やし着実に規模を拡大している。今では厳選された二十名を越す商会員によって、二日に一度、フェリアルとティヴリス間の定期便まで運行されている。
商会員への報酬は各国が発行している貨幣と、ティヴリスのマール通貨、どちらでも選択出来る様にしていた筈だ。
「別に構わないんじゃないか?」
「この間……エリアス様に出来るだけマール通貨と他の貨幣を半々で支払う様に、と言われてるんです。ですが、彼らは全額マール通貨で欲しいみたいで……後で両替すると手数料が掛かるので……」
エリアスが、給与の支払いに他国の金貨を混ぜるように指示した理由は大方想像がつく。
彼女にはまだ地下から一万円札が増殖できる事を言っていない。だがマール貨幣に微量ながらミスリルが混ぜられている事は教えた記憶がある。恐らく貴重であろう紙幣や貨幣の消費を少しでも減らそうと考えたのだろうが……、こちらの本意は外貨獲得に有る。早く伝えておくべきだった。
ザッタールに説明されていた、男たちを振り返る。
「何故マールを欲しがるんだ。同じ価値の通貨ではダメなのか?」
「どこの旦那かは知りませんが、そんな事も知らないんですか? 良いですか!? このティヴリスのお金にはね、ご利益が有るんですよ!」
「そうそう。あっと言う間に、知らない者が居ないほどに浸透しちまって、今じゃそれ自体に商売成功のご利益があるって噂でね」
「私らは仕事柄、どこぞの小国が発行してくる、ぽっと出の怪しい金貨なんてのは何度も見てますがね。ここのは段違いです」
「私は信じてないんですがね、あの紙の金だけは別ですよ。あれは美しい! 最近商人仲間の間でもね、あの紙幣を持つのが流行ってるんですよ」
なんとまぁ。トリトスが美術品としての価値を見出す者が現れるかも知れない、と言っていたのは覚えているが……一万円札を持つ事が、この世界の商人達の一種のステータスになっているとは……
「そうか。すまん、それは俺の伝達ミスだ。ザッタール、給料はこちらの通貨で支払って構わん。遡って両替にも応じるよう伝えておこう。今此処で紙幣に替えたい者が居れば俺が交換しても構わんぞ」
ジーンズの尻ポケットから財布を抜いて訊く。
「本当ですか!? 是非お願いします!」
五人の内、進み出てきたのは一人だけ。他の者はまだ紙幣に交換できる程に貯められていないらしい。
「……良いんですか? オーナー」
「良いんだ、後で両替所にも寄るつもりだからな。その時戻して貰えば良い」
長財布を開いて、「一枚で良いのか?」と訊くが、商人達は財布を見つめて固まっている。
「だ、旦那……? それ全部一万マール紙幣……ですか?」
「待て待て、テムズ。そんな事は無……」
「いや、その通りだ。」
テムズと呼ばれた商人に、ガバっと財布を開いて中を見せる。元々紙幣が五十枚まで綺麗に収まるように作られている長財布は有名ブランドではないが、使い込まれた飴色のコードバン皮革は良く手に馴染む。
昔ある人に貰った物だが、何度も修理を重ね、もう七年以上も使っている。カードや電子情報を信用しきっておらず、常にある程度の金額を持ち歩く事が習慣化されていた俺にはとても使い勝手の良い物だ。
「凄い……全部でいくら有るんだ……旦那は一体……」
商人五人が引き始めた所でザッタールが助け舟を出す。
「オーナー、悪ふざけが過ぎます……。皆さん、この方はマサアキ様。我がザッタール商会の最高責任者で有り……ティヴリスの国王様です」
「「「はぁ!??」」」
慌ててその場に平伏そうとする商人達を押し留め、黙っていた事を謝り、約束通り換金を済ませて足早にその場を離れる。
「少し調子に乗りすぎたか……」
それにしても、ザッタールが上手くやっている様で安心できた。
今のティヴリスの産業は、地球の知識を元にした加工、製造、製鉄などの第二次産業と、僅かな軍需産業だ。これらには鉱石資源が欠かせないが、いつ領内の鉱脈が尽きないとも限らない。手の空いてきたザッタールには近いうちに北のウル王国へと商談へ赴いて貰う必要が有る、しっかり働いて貰おう。




