第133話:深淵からの微笑みと、掌の上の天才令嬢
夜が更け、城塞都市の喧騒が遠い地鳴りのように引いていった『遠雷の大聖堂』の最奥。
祭壇の裏側に潜んだ天才少女令嬢セレスティアは、色付き眼鏡をずり上げ、その奥にあるサファイアの如き瞳を、勝利の予感にキラキラと輝かせていた。
「……決まりね。シスター・クレア、あなたの『慈愛の聖域』が放つあの強烈な魔力の奔流は、怪物が都市に張り巡らせた監視網にとって、網膜を焼くような『認識障害』を引き起こす劇薬になるわ」
セレスティアは泥にまみれた丁稚服の裾を、羽を震わせる小鳥のようにパタパタと払いながら、誇らしげに薄い胸を張った。
その頬は、絶対的な怪物に対する「反逆の糸口」を自らの知略で手繰り寄せたという高揚感で、林檎のように赤く染まっている。
これ以上ないほど満足げな、年相応に無邪気で、しかし酷く挑戦的な『ドヤ顔』が、蝋燭の火に照らされていた。
「毎日、あなたの祈りの時間に発生するこの『死角(バグ空間)』こそが、奴の無欠の帝国に穿たれた唯一の風穴。ここを起点に、じわじわと毒を流し込んでやるわ。……ふふん、私の完璧な計算からは、どんな神様だって逃げられるはずがないのよ! 見ていなさい、あの顔の見えない化け物の鼻を、これ以上なく綺麗に明かしてやるんだから!」
「お嬢様、お声が少し……。ですが、誠に見事な知略にございます」
傍らに控えるリーゼが、主人の愛らしい得意顔に、慈しむような微笑を微かに漏らした。
シスター・クレアもまた、祈りによって削られた魔力の倦怠感の中にありながら、この小さな少女が放つ、未来を切り拓くような眩い光に、震える心で希望を繋いでいた。
(ふふんっ! 私をただの『死に戻り』だと侮ったのが運の尽きよ。あなたがどれほど完璧な盤面を構築しようと、私はその裏側をハックして、その余裕の仮面をズタズタに引き裂いてやるんだから……!)
***
しかし――。
天才令嬢が、自らの描いた「逆転のシナリオ」という甘美な毒に酔いしれていた、その頃。
遥か遠く、城塞都市の静寂を見下ろす隠れ家の最上階。
豪奢なアンティークの執務机に深く身を沈めた少年の絶対者・トールは、クリスタルグラスの中でカラン、と氷を鳴らし、腹の底からこみ上げる愉悦を噛み殺していた。
「……くくっ、ふ、ははははっ! ああ、たまらないな。これだからイレギュラーの観測はやめられない」
トールの脳髄に直結した『管理者権限:支配領域 Lv.5』。
目の前に展開された青白いホログラムには、大聖堂の奥で密談を交わすセレスティアたちの姿が、一言一句の囁きから、高揚に震える指先の動きに至るまで、極めて鮮明な映像と音声として「配信」されていた。
「あの光が、俺の監視網にホワイトアウトを起こす? ……傑作だ。最高のジョークだよ」
トールは魔酒を喉に流し込み、心地よいアルコールの熱を感じながら肩を揺らした。
確かにクレアの光は物理的な魔力飽和を引き起こす。だが、知力150を超越した俺のシステムにとって、それは「障害」などではなく、単に『クレアの祈りが始まった』という正常なステータスログに過ぎない。
彼女たちが「絶対安全な死角」だと思い込んで、秘密の作戦をキャッキャと練っているその空間こそが、トールにとっては最も解像度の高い「特等席」なのだ。
「それにしても……前世の記憶を持つ『死に戻り』の天才令嬢、か」
トールは、ホログラムの中で必死に背伸びをして大人びた言葉を紡ぎ、それでいて隠しきれない少女の子供らしい無防備なドヤ顔を見せるセレスティアを、興味深く見つめた。
泥にまみれた丁稚服が、彼女の本来の気品とアンバランスに混ざり合い、奇妙な愛らしさを醸し出している。
「……可愛いじゃないか。まるで、透明なガラスケースの中で必死に出口を探している、極めて知能の高いハムスターを愛でている気分だ」
トールの唇に、意地悪で、それでいてどこか歪んだ慈愛を孕んだ、残酷な微笑みが浮かぶ。
これほど完成されたシステムの中で、唯一俺の論理に牙を剥こうとする、愛すべきバグ。そのまま握り潰して消し去るには、この世界はあまりに退屈すぎた。
(さて。……一生懸命に積み木を組み上げているお嬢さんに、現実という名の『重力』を教えてやるか)
トールは右手の黒い金属棒を指先で弄び、大気中の魔力密度をミリ単位で微調整した。
***
大聖堂の祭壇裏。
「よし、まずは明日の夜。物流管理棟の裏手、三番目の通気口から潜入して――」
セレスティアが、床に広げた地図を指差し、鼻息も荒く作戦を語り始めた、その瞬間だった。
『――そこは昨日、鉄格子をミスリル製にアップデートしたばかりだ。別のルートを練り直した方がいいぞ、お嬢さん』
「……へ?」
セレスティアの指先が、地図の上で凍りついた。
リーゼが弾かれたように短剣を抜き、クレアが悲鳴を呑み込んで胸を押さえる。
その声は、どこから響いたわけでもなかった。
大気そのものが、少年の瑞々しさと大人の深淵を併せ持った響きで震え、セレスティアの耳元で直接、シルクの糸が這うように囁いたのだ。
「だ、誰……っ!? どこにいるのよ!」
セレスティアは色付き眼鏡をずり落としながら、逃げ場のない小動物のように周囲をキョロキョロと見回した。
『俺の死角を突いて、鼻を明かしてくれるんだったかな? 存分に愉しませてもらっていたんだが……あまりに作戦がザルすぎてな。筒抜けでは、さすがに欠伸が出る』
「つつ、筒抜け……っ!? まさか……」
セレスティアの顔から、さぁっと血の気が引いた。
安全だと信じていたホワイトアウトの闇。それが、実は初めから相手の掌の上で、サーチライトに照らされていたという残酷な事実。
『あのシスターの光は素晴らしい。だが、俺のシステムはそれすらも「照明」として利用している。……お前が必死に隠れようとしているその暗闇は、俺にとっては真昼の太陽の下よりも鮮明に、お前のドヤ顔を映し出しているんだよ』
「なっ……! あんた、ずっと……最初から、見て……!」
セレスティアの顔が、今度は白から、沸騰するような真っ赤へと急速に染まり上がっていった。
ドヤ顔で「私の完璧な計算通りよ!」と胸を張っていたあの瞬間も、すべて、この顔の見えない怪物に「観察対象」として眺められ、くすくすと失笑されていたのだ。
十歳の少女のプライドが、ガラス細工のように音を立てて木っ端微塵に粉砕される。
「こ、この……っ! 性格悪い! 悪趣味! 変態! 覗き魔!!」
セレスティアは真っ赤な顔で涙目になりながら、見えない虚空に向かって小さな拳をブンブンと振り回した。前世の王妃としての気品などかなぐり捨て、ただの悔しがる女の子として地団駄を踏む。
『覗き魔とは人聞きが悪いな。俺の庭に入り込んで、勝手に踊っていたのはそっちだろう?』
トールの声には、隠しきれない愉快そうな響きが混じっていた。
『よく覚えておけ、天才令嬢セレスティア。――深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている』
その言葉が、耳元で甘く、そして恐ろしいほど冷徹に囁かれた瞬間、セレスティアの背筋にゾクッと痺れるような電流が走り抜けた。
ただの恐怖ではない。自分を完全に手玉に取り、高みから見下ろしている存在に対する、圧倒的な屈辱。そして、今まで感じたことのない胸の奥の、激しい動悸。
「……っ!! 絶対に、絶対に、一生許してあげないんだから!!」
セレスティアは顔を両手で覆い、耳の付け根まで真っ赤にしてその場にしゃがみ込んだ。
『くくっ。せいぜい精進することだ。お前の次の「反逆」、飽きさせないでくれよ?』
大気に溶け込んでいた圧倒的な圧力が、潮が引くようにフッと霧散する。
後には、恥ずかしさと悔しさでプルプルと震えるセレスティアと、どう慰めるべきか困惑してオロオロとするリーゼ、そして絶句するクレアだけが残された。
「……あうぅぅ……死ぬほど恥ずかしい……っ。バカバカ、私のバカ……!」
セレスティアは膝に顔を埋め、自らの未熟さを呪った。
だが、その目に見えない「絶対者」に対する強烈な執着と、初恋にも似た熱い動悸が、すっかり自分の心に絡みついていることに、彼女はまだ気づいていなかった。
完璧な盤面を支配する少年の絶対者と、その掌の上で愛らしく踊らされる天才令嬢。
二人の、知略という名の甘く狂熱的な「鬼ごっこ」は、こうして残酷なまでの幕開けを迎えたのであった。




