第132話:深淵の瞳と、初恋のホワイトアウト
大聖堂を包む静寂の中、シスター・クレアが涙と共に反逆の誓いを立てた、その直後だった。
セレスティアは安堵に胸を撫で下ろす代わりに、背筋を鋭い氷の刃でなぞられたような、おぞましい悪寒に襲われた。
十歳の天才令嬢の脳髄が、本能的な警鐘をけたたましく鳴らしている。
(……おかしい。夜の帳が下りたとはいえ、この都市の監視は血管の脈動すら捉えるほど緻密なはず。私たちがこれほど容易く、システムの「精神の中枢」である彼女と接触できるなんて)
セレスティアは色付き眼鏡の奥で、蒼い瞳を険しく細めた。
ステンドグラス越しに差し込む月光が、床に奇妙に歪んだ影を落としている。
「お嬢様……? いかがなさいましたか」
リーゼが微かな衣擦れの音と共に歩み寄るが、セレスティアは白磁のような指を唇に当て、それを制した。
彼女の視線の先には、無名の女神像が鎮座している。
像から漏れ出る、鼓膜を震わせる「キィィィン……」という共鳴回路の魔力波長。それは単に人々の疲労を吸い上げるだけでなく、クレアの「純粋な善意」を媒介にして、都市の隅々に張り巡らされた不可視の魔力網へと、神経のように直結していた。
その瞬間、前世で読んだ古い哲学書の断片が、セレスティアの脳裏を稲妻となって駆け抜けた。
――『深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている』
「……っ!! そういうことね……!」
セレスティアは両手で己の小さな口を覆い、恐怖と、そして制御不能な知的好奇心で全身を細かく震わせた。
「あの怪物は、私たちを見逃しているんじゃないわ。……最初から、すべてを『視て』いるのよ! この密やかな告白も、私の反逆の誘いも。すべては彼の掌の上で演じられる、極上の余興として泳がされているだけなんだわ!」
「なっ……! 私の隠密術すらも、透過されていると……!?」
リーゼの琥珀色の瞳が、戦慄に大きく見開かれる。
「ええ。物理的な気配を消したところで、この街では意味をなさない。彼は都市を満たす魔力そのものを己の神経へと変え、全知全能の視座から、私たちを盤上の駒として見下ろしているのよ」
絶対に勝てない。神の如き全自動の領域。
並の少女であれば、その絶望の重圧に膝を突き、泣き崩れていただろう。
だが、セレスティアは違った。
彼女の蒼い瞳には、恐怖という名の燃料を注がれ、より一層激しく燃え盛る「不屈の闘志」と、頬を紅潮させるほどに熱い「高揚感」が浮かび上がっていた。
「……上等じゃない。私をただの無力な観察対象だと思っているなら、その驕り、根底からへし折ってあげるわ」
セレスティアはクレアに向き直り、その冷えた手を、自らの熱を分け与えるように強く握りしめた。
「シスター・クレア。あなたの『慈愛の聖域』……その光の波長を、ほんの一瞬、意図的に暴走させることはできる?」
「波長を、乱す……? やろうと思えば可能ですが、それでは癒やしの旋律が不協和音となってしまいます」
「それでいいの! 癒やしの波動を外へ逃がさず、女神像の『共鳴回路』へ逆流させるのよ! あの怪物の監視網は、あなたの純白の魔力をレンズにして世界を視ている。なら、そこに処理不能なほどの『純粋な善意の暴走』を叩き込んで、あの怪物の眼を物理的に焼き潰すの!」
それは、全知のシステムに対する、捨て身の「カウンター・ハック」だった。
クレアが戸惑いながらも深く頷き、再び女神像の前で祈りの型を組む。
「分かりました。……やってみます!」
「リーゼ! クレアが視界を奪うのは、ほんの数秒よ。その隙に、昼間に盗み見た物流指示書……あの暗号帳簿の写しを、真実へと書き換えるわよ!」
セレスティアは懐から、泥に汚れた羊皮紙の束を取り出した。
「王都へ向かうはずの『極上・琥珀の魔酒』の出荷ルートに、致命的なバグを仕込む。タルタロス方面へ誤配させるよう数値を改ざんし、その偽造伝票を管理ポストへ滑り込ませなさい!」
「承知いたしました、お嬢様!」
「いくわよ……クレア、今ッ!!」
セレスティアの号令が静寂を切り裂くと同時に、クレアが全身の魔力を、祈りとともに解放した。
『慈愛の聖域』の純白の光が、癒やしではなく「極大の光の乱反射」へと変貌し、大聖堂の空間を塗り潰す。女神像の回路を通じて、都市の魔力網へ向けて凄まじい逆流が奔流となって解き放たれた。
「……いっけえええええっ!!」
十歳の少女の、高らかで、かつ必死な叫び声が堂内に響き渡る。
リーゼは神速の歩法で聖堂を飛び出し、監視の走査線が途絶えた数秒の空白を縫って、物流管理ポストへ偽造指示書を投函した。
数秒後、クレアが肩を激しく上下させながら光を収めると、大聖堂には再び、何事もなかったかのような夜の静寂が戻った。
「……やった……! やってやったわ!」
セレスティアは、泥だらけの丁稚服のまま、床の上にぺたりと崩れ落ちた。
張り詰めていた緊張の糸が千切れ、小さな胸の奥で心臓が壊れそうなほどにバクバクと暴れている。掌には、ぐっしょりと冷たい汗が滲んでいた。
「どうよ、あの顔の見えない怪物! 私たちをただのネズミ扱いするから、こんな目に遭うのよ! ふんすっ!」
彼女は誇らしげに小さく鼻を鳴らし、両手で可愛らしいガッツポーズを作ってみせた。
その姿は、先ほどまでの冷徹な策士ぶりを忘れさせるほど、年相応の無邪気さに満ちていた。
だが、彼女の頬は達成感だけではない、未知の熱によって林檎のように赤く染まっていた。
(……私、あの全知全能のシステムに一矢報いたのよ。彼に、私の存在を『ただの駒じゃない』って、その脳髄に刻み込んでやったわ……!)
それは、恐怖と敵対心という土壌から芽生えた、得体の知れない「知の怪物」に対する強烈な執着。彼女の人生で初めて、対等に渡り合える存在を見つけたという、いびつで甘美な『初恋』の確かな胎動であった。
「お嬢様、お見事です。……ですが、いささかお顔が赤いですわね。お熱でも?」
戻ってきたリーゼが、その緊張の緩和を喜ぶようにクスリと笑う。セレスティアは慌てて色付き眼鏡を押し上げ、プイッと顔を背けた。
「べ、別に熱なんてないわよ! さあ、帰るわよ! 明日、街の物流がパニックになるのが楽しみだわ!」
***
同じ頃。城塞都市を一望する、隠れ家の最上階。
アンティークの執務机で、冷えた魔酒のグラスを傾けていた少年の絶対者、トールは、突如としてその背筋を伸ばし、目を見開いた。
「……なっ!?」
『管理者権限:支配領域』を通じて脳内に描かれていた、完璧で透明な都市のホログラム。その一部――大聖堂を中心とした区画が、突如として目も眩むような「純白のノイズ」によって完全に焼き切られ、数秒間、彼の知覚は白銀の虚無へとホワイトアウトした。
「……シスター・クレアの『慈愛の聖域』か? いや、違う。これは意図的なフィードバック……逆流だ!」
トールは勢いよく立ち上がり、右手に握った漆黒の金属棒を、軋むほどに強く握りしめた。
数十秒後、システムが自動復旧し、再び都市の拍動が脳内に流れ込んでくる。
だが、復旧したログには、かつてない致命的なエラーが刻まれていた。
『警告:物流ルートB-7に改ざんの痕跡。王都行きの魔酒百樽が、タルタロス行きの貨物列車に誤積載されました』
「……っ、ふ、ははは!」
トールの口から、思わず乾いた笑いが漏れ出した。
完璧に構築したはずの、俺の盤面。
大気中の魔力すら支配下に置き、神の視座を手に入れたはずの俺のシステム。
それを、あのスラムのドブネズミに扮した「小動物」が……意図的に監視の網目を突き、一瞬のブラインドを利用して、俺の経済の血管に『血栓』を仕込んでみせたのだ。
「……一本取られたな」
トールは、グラスに残った琥珀色の液体を一息に煽り、窓の外、静まり返る夜空を見上げた。
そこにあるのは怒りではない。この異世界に来て初めて味わう、想定外の事態に対する底知れぬ歓喜だった。
「深淵を覗き込んでいたのは俺だけだと思っていたが。……お前も、俺という深淵を見つめ返し、あまつさえその喉元に噛みついてくるとはな」
三十代の社畜が構築した、退屈なまでに完璧な全自動の搾取帝国。
そこに現れた、ただ一つの、愛らしくも凶悪なバグ(天才令嬢)。
「いいだろう。お前が俺の盤面を崩すというなら、俺はさらにその上の論理で、お前のすべてを蹂躙し、屈服させてやる。……せいぜい足掻いて、俺を楽しませろ」
月光が差し込む窓辺で、少年の絶対者は、見えざる好敵手に向けて、これまでで最も深く、暗い熱を帯びた残酷な笑みを刻み込んだ。
交わるはずのなかった二人の天才による知略戦は、ここから真の幕を、蒸気の咆哮と共に開けるのだった。




