第121話:財政出動の号砲と白銀のゼネコン
ヴァルハイト王国の心臓部、王都『シュトルツ』を包み込んでいたのは、肺を焼くような病的な熱気だった。
千年もの間、大陸の権威として君臨した白亜の尖塔群は、今やトールの帝国が放つ「不可視の侵略」――経済という名の暴力によって、その基盤から音を立てて溶解しつつあった。
城塞都市の最上階、重厚な静寂が満ちるVIPルーム。
深紅の絨毯に片膝を突いた大商人グレンと特務機関長ザイードは、主であるトールの前で、ある一国の「死」の経過報告を読み上げていた。
「トール様……。王都シュトルツの経済は、もはや我々の想定を遥かに超える速度で壊死しております」
グレンは、額に滲む冷や汗を上質な絹のハンカチで拭った。
「我が商会が流し込んだ『規格パン』と白小麦。その圧倒的な安さと品質の前に、王都周辺の農村は完膚なきまでに叩き潰されました。代々続いた機織り職人も、一点の狂いもない『トール・ブルー』の規格服を前にしては、ただ糸を切られた人形のように廃業を待つのみ。彼らは今、住処を追われ、外郭のスラムへと黒い泥のように雪崩れ込んでおります」
「スラムの人口密度は、すでに数倍に膨れ上がっておりますぜ」
ザイードが影の中から、凍てつくような声を重ねた。
「俺の放った『忍者』からの報告によれば、王都の路地裏は絶望の悪臭と飢えた者たちの怒号で溢れかえっております。対照的に、国王フリードリヒ三世と貴族どもは、献上した『琥珀の魔酒』に溺れ、日夜、狂乱の宴に身を投じている。……王都は今、上から下まで、一滴の理性を残さぬほど機能不全に陥っております」
二人の報告を背中で聞きながら、トールはクリスタルグラスの中の琥珀色を、指先で静かに揺らした。
カラン……。
透明な氷が硬質な音を立てて崩れ、芳醇なアルコールの香りが鼻腔をくすぐる。
「……産業を破壊し、サプライチェーンを独占する。経済侵略の『第一フェーズ』としては、実に美しい推移だ」
トールはグラスを置き、両手を机の上で組んだ。
「だが、王都がただの巨大な死体へと変貌するのは、私の美学に反する」
トールの冷徹な言葉に、グレンとザイードが怪訝そうに顔を上げた。
「いいか、グレン。商売とは、供給と消費の循環によってのみ成立する。王都の民が一文無しになれば、彼らは私の造った服もパンも買うことができなくなる。購買力を失った消費者は、私のシステムにとって何の価値も生み出さない、ただの不良債権だ」
三十代の社畜として、世界の血流である経済システムを血吐きながら学んできたトールの論理が、二人を射抜く。
「それに、肥大化したスラムはやがて疫病の苗床となり、暴動という名の『バグ』を引き起こす。治安の悪化は物流を阻害し、最終的に私の純利益を削り取る。……私の完璧なシステムに、そのような醜い不確定要素は一ミリたりとも許されない」
「な、なるほど……。我々の商品を永遠に買わせ続けるために、彼らを生かし、稼がせる必要があると……」
「その通りだ。だからこそ、次のカードを切る。……グレン、ザイード。財政出動だ」
「ざいせい……しゅつどう……でございますか?」
聞き慣れない現代語に、二人が目を瞬かせる。
「ああ。これより我々は、巨大な『建設会社』を設立する」
トールが机に広げたのは、近代的なインフラ整備の青写真だ。そこには蒸気建機と魔導技術が融合した、この世界には早すぎる「文明の設計図」が描かれていた。
「城塞都市の上下水道、石橋、そして『白銀の軌条』。この圧倒的なテクノロジーを、王都の『公共事業』としてねじ込む。魔酒に脳を蕩かせた貴族どもは、自分の鼻腔を突く悪臭さえ消えるなら、喜んで国庫の鍵を差し出すだろう」
トールの唇が、残酷な弧を描く。
「事業の資金はすべて王国の税金から出させ、その現場で、王都に溢れかえった失業者たちを大量に雇い入れるんだ。王の金で、王の民を、私の支配構造の拡張のために働かせる」
「……っ!!」
グレンとザイードの身体が、同時に戦慄に震えた。
領主の金庫から引き出された金は、建設会社を経由し、労働者の日当へと姿を変え、その日のうちに彼らがパンと酒を買い求めることで、再びトールの懐へと還流する。
「一滴のロスもない、究極の永久機関だ」
トールは魔酒を喉へ流し込み、熱い吐息を吐き出した。
「王都の地底には私の陶管が走り、道は私の規格で均される。一度インフラを握れば、今後のメンテナンスから部品交換に至るまで、彼らは一生、私という飼い主から離れることはできなくなるのだ」
「……神をも恐れぬ、完璧な簒奪……」
ザイードが、床に額を擦りつけるように平伏した。
「剣を一度も振るわず、王国の血の一滴までをも搾り尽くす……。オーバーロード、あなた様の知略の前では、千年の王国など、ただの巨大な貯金箱に過ぎません」
***
数週間後。
王都シュトルツの外郭スラムは、それまでの死に体から一転し、異様な咆哮に包まれていた。
「おい! 聞いたか! グレン商会の開発部門が、人夫を募集してるぞ!」
「日当は大銀貨一枚! あの、白くて甘い『規格パン』が食い放題だ!」
絶望に泥を啜っていた男たちが、血走った眼で採用テントへと殺到する。彼らの前に立つのは、蒼黒の作業服を纏った『先行市民』の現場監督たちだ。
「並べ! 押すな! トール様の懐は底なしだ、働きたい奴は全員雇ってやる!」
採用された者たちに支給されたのは、『トール・ブルー』の真新しい作業着と、鉄芯の入った安全靴だ。ボロボロの麻布を脱ぎ捨て、機能的な布地に袖を通した瞬間、彼らの瞳から「浮浪者」の卑屈さが消え、巨大なシステムの一部として組み込まれた安堵の光が宿る。
「よっしゃァ! 今日から俺たちは、トールの旦那の社員だ!」
現場では、王都の住民が未だかつて見たこともない鋼鉄の怪物が、黒煙と重低音を響かせて大地を抉っていた。
「蒸気駆動式ロードローラー、前進! 大地を平らに踏み固めろ!」
凄まじい熱量と、油の匂い。バルカスが量産した蒸気建機が、古びた石畳を容赦なく粉砕していく。失業者たちは今や「作業員」という誇り高い称号を胸に、ツルハシを振るい、巨大な陶管を運ぶ。
夕刻。
一日の過酷な労働を終えた男たちは、握りしめた銀貨を携え、新設された『大衆ビアホール』へと雪崩れ込んでいった。
「親父! 規格パンと、あのシュワシュワする黄金の酒をくれ!」
サーバーから注がれる、キンキンに冷えた生ビール。
渇ききった喉にそれを流し込んだ瞬間、彼らの口から魂が弾けるような咆哮が上がる。
「ぷはぁぁぁぁぁッ!! 最高だ! 働いた後のこれは、王様の飲むワインよりも上だぜ!」
彼らは稼いだ銀貨を、一晩でトールの酒場と商店に落としていく。
領主の税金は、トールの建設会社、労働者の手、そしてトールの商会へと、円を描くように還流し、王都の経済を完全に掌握していった。
***
「……見事な踊りっぷりだ」
遥か地下数千メートル、第百階層の玉座。
紫色の超巨星となったマザー・コアを見上げながら、トールはクリスタルグラスを揺らした。
カラン……。
氷の音が、無重力の空間に心地よく響く。
モニターには、王都の地面を嬉々として掘り返す数万の「歯車」たちの熱源ログが、美しく整列して流れ続けていた。
王城の玉座で愚王がどれだけふんぞり返ろうとも、この国の真の支配者が誰であるかは、もはや物理的に覆しようのない事実として確定していた。
「さあ、世界よ。私のシステムの部品として、明日も嬉々と泥を掘れ。その汗の対価は、永遠に私が搾り取ってやる」
十一歳の絶対者は、夜の風に魔酒の香りを漂わせながら、残酷なまでに美しく、完璧な支配者の笑みを、深く、深く刻み込んだのだった。




