第112話:鋼鉄の蹄と黄金の種子
春の訪れは、常に湿り気を帯びた土の匂いと共にやってくる。
「白き死」と呼ばれた苛烈な猛吹雪がようやく去り、城塞都市を固く閉ざしていた分厚い雪の殻が、陽光に焼かれてじわりと溶け出し始めた頃。開け放たれた窓から忍び込む冷ややかな春風が、アンティークの執務机の上に整然と積み上げられた羊皮紙の端を、微かに、そして執拗に揺らしていた。
俺は、月光を吸い込む鉄羽と深海の青鱗が編み込まれた『蒼黒の鱗羽鎧』の冷徹な感触を、素肌の上で愉しんでいた。手元の帳簿に落とす視線は、獲物を値踏みする猛禽のそれと同じだ。
「……グレン。我が都市の胃袋は、あまりにも他人の機嫌に左右されすぎているな」
俺の低い声が、静寂に満ちた最上階の執務室に重く響いた。
対面の深紅の絨毯に額を擦り付けるように控えていた大商人グレンが、弾かれたように肩を跳ねさせる。彼の額からは、春の冷気とは無縁の、脂ぎった汗が滲み出していた。
「は、ははっ……。トール様の仰る通りでございます。現在、我が都市の人口は爆発的に膨れ上がり、消費される食糧――特に主食となる小麦、大麦、ライ麦の消費量は、昨年の五倍に達しております。その大半を、王都や近隣諸国の穀倉地帯からの『輸入』に依存せざるを得ないのが現状でして……」
グレンの言葉尻には、商人特有の狡猾な計算と、その根底にある「いつ首を絞められるか分からない」という、胃の腑を握られるような焦燥が混じっていた。
「愚かなことだ」
俺は黒い金属棒を指先で弄び、チリッ、と青白い火花を散らした。爆ぜるような放電の衝撃と、鼻腔を突く焦げたオゾンの匂いが、埃っぽい羊皮紙の香りを一瞬で駆逐する。
「どんなに『極上・琥珀の魔酒』で貴族どもの理性を溶かし、蒸気機関の織機で世界を白銀の糸で縛り上げようとも、命の根源である『麦』を他国に依存している状態は、自ら首輪を差し出して他人に鎖を握らせているのと同じだ。……もし、王都が干ばつを理由に輸出を禁じれば、この街は一ヶ月で餓死者の山となる」
かつて三十代のサラリーマンとして、企業の血が通うはずのサプライチェーンを血反吐を吐きながら管理してきた俺にとって、食糧自給率の低さは、喉元に突きつけられた致命的な「システムのバグ」に他ならなかった。
他者の畑で育つ麦に、俺の帝国の命運を預けるつもりなど毛頭ない。
「……ですが、トール様。この城塞都市の周辺農村を単作地帯へと造り替え掌握しましたが、長年の酷使で土が痩せ細り、現状の農地ではこれ以上の収穫量の増加は見込めません。春小麦の作付け時期が迫っておりますが、この死んだ土地で都市の胃袋を満たすなど、物理的に不可能でございます」
「だからこそ、『改革』を行う」
俺は机の引き出しから、ずっしりと重い小さな麻袋を取り出し、グレンの目の前に無造作に放り投げた。
コトリ、という鈍い音が響き、袋の口から数粒の麦がこぼれ落ちる。
「そ、それは……?」
「俺が昨年の秋から、スラムの一部を隔離して『先行市民』たちに極秘裏に育てさせていた『種もみ』だ」
俺は一粒の麦を指先でつまみ上げた。それは、通常の痩せた麦とは次元が違う。真珠のようにふっくらと丸みを帯び、鈍い黄金の輝きを放っている。指の腹に伝わる硬質な重みには、爆発的な生命力が極限まで凝縮されていた。
「優良な株だけを選別し、病気に強い種と掛け合わせ、魔力水を希釈して徹底的に品種改良を施した。……この種もみは、病魔を弾き返し、従来の『三倍』の収穫量を叩き出すポテンシャルを秘めている」
「さ、三倍……ッ!?」
グレンの瞳孔が限界まで開いた。商人の脳髄が、その数字がもたらす暴力的なまでの利益と、隣国を黙らせる地政学的な優位性を瞬時に弾き出したのだろう。彼の呼吸が荒くなる。
「し、しかしトール様! 種がいかに優れていようとも、それを植え、育てるための『土壌』が死んでおります! 深く土を返し、空気を含ませなければ、この黄金の種もみも腐るだけでございます! だが、春の短い作付け期間に、あれほど広大な荒れ地を人力で耕し切るなど……何千頭の牛馬と、何万の農奴が必要になるか……!」
グレンの悲鳴に近い絶叫は、この世界の常識に照らし合わせれば極めて正しい。
だが、俺が支配するこの都市に、「常識」という名のブレーキなど存在し得ないのだ。
「誰が、人間の筋肉や家畜の背骨で土を耕すと言った?」
俺は立ち上がり、月光を吸い込む鱗羽鎧を重厚に鳴らした。
「生物の肉体に依存する時代は、蒸気の産声と共に終わったはずだ。……グレン、バルカスの地下工房へ向かうぞ。俺たちの新しい『農奴』の目覚めだ」
***
第一工場のさらに地下。
そこは、強烈な石炭の焦げた匂いと、沸騰する機械油の生臭さが肺の奥まで侵入してくる、狂気の錬金術の胎内だった。
「トール様! おお、我が神よ! 完成いたしましたぞ!」
煤にまみれ、双眸に狂信の炎を燃やす天才魔導具師バルカスが、重厚な鉄の扉を押し開けて俺を迎え入れた。彼の落ち窪んだ眼窩に疲労の色など微塵もなく、ただ「真理」に触れた者特有のギラついた熱狂だけが、粘つく汗と共に張り付いている。
俺とグレンが足を踏み入れた巨大な空間の奥には、鉛色の蒸気をシューシューと低く吐き出しながら、地を這うような唸りを上げる鋼鉄の怪物が鎮座していた。
「こ、これは……機関車……? いや、違う。車輪が……!」
グレンが喉を鳴らし、一歩後ずさる。
それは、白銀の街道を疾走するために造られた蒸気機関車とは似て非なる、土を食らうための異形だった。
巨大なミスリル・コーティングのボイラーを背負っているのは同じだが、大地を掴む足――車輪は、泥を逃がすための無骨な鉄の突起に覆われ、まるで兇悪な棘の付いた棍棒のようだ。さらにその後部には、鋭く湾曲した重厚な鋼鉄の刃――「回転式の巨大な鋤」が、怪物の剥き出しの牙のように何十本も連なり、油光りしていた。
「蒸気駆動式耕運機だ」
俺は鋼鉄の怪物の、熱を帯びた装甲を撫でた。熱を帯びた鉄の振動が、指先から脳髄へと確かな支配の震えを伝えてくる。
「タルタロスから組み上げた高純度の魔石を燃料に、ミスリル導線が熱を均一にボイラーへ伝える。圧倒的な蒸気の圧力(暴力)は、ただひたすらに背後の鋼鉄の刃を回転させ、硬く死んだ大地を数メートル深く抉り出し、粉砕する」
「……この怪物が、畑を……耕す……?」
グレンの顔から血の気が失せていた。
農耕という、太陽と雨に祈りを捧げ、汗と泥に塗れて行う神聖な営み。それを、吐き気を催すような黒煙と機械油の匂いを撒き散らす鉄の獣に代行させるという、あまりにも傲涜的で、効率的な発想。
「祈りで麦は育たない。必要なのは、均一に破砕された土壌と、計算された養分だ。バルカス、火を入れろ。……実戦テストだ」
***
数日後。城塞都市の外郭に広がる、ひび割れた荒野のような農地。
早朝の冷たい靄が立ち込める中、数千人の農民たちが、不安と恐怖の入り混じった顔で集められていた。彼らの手には、使い古され、刃の欠けた錆びた鍬や、肋骨の浮き出た痩せ細った牛を繋ぐ手綱が、震えながら握られている。
「おい、領主様……いや、あの『トール様』が、今日から俺たちのやり方を変えるって本当か?」
「あんな子供に、土の何がわかるっていうんだ……。この痩せた土地じゃ、いくら祈ったって……」
不満と諦念が、粘つく湿気を帯びたざわめきとなって農地を這う。
そこへ。
ズシン……ズシン……。
大地の底、地核から響くような、等間隔の重低音が、農民たちのざわめきを物理的に押し潰した。
「な、なんだ!? 地震か!?」
「見ろ! あそこから……黒い煙が!」
白い靄を暴力的に切り裂き、轟音と共に姿を現したのは、真っ黒な噴煙を空高く吐き出しながら、ゆっくりと、だが拒絶を許さぬ圧力で進撃してくる三台の『蒸気駆動式耕運機』だった。
「ひ、ひぃぃぃッ!? 鉄の化け物だァッ!」
農民たちが恐慌状態に陥り、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。だが、その鉄の怪物の天蓋に立ち、黒い金属棒を悠然と構えた十歳の少年の姿――トールを認めた瞬間、彼らの足は不可視の呪縛に縛られたように凍りついた。
俺は金属棒を高く掲げ、魔力で増幅させた声を、震える荒野の隅々まで叩きつけた。
「よく見ろ。これが、お前たちを永遠の飢えから解放する『神の腕』だ」
俺が合図を送ると、バルカスと操縦席に座る先行市民たちが、一斉に巨大なレバーを引き落とした。
――ガゴンッ! ギュイィィィィィィンッ!!
鼓膜を突き破るような金属の絶叫。それと共に、耕運機の後部に備え付けられた巨大な鋼鉄の鋤が、目にも留まらぬ速さで回転を開始した。
「前進しろ! この死んだ大地を、すべて食い破れ!」
蒸気を噴き出しながら、三台の鋼鉄の獣が荒野へと突進を開始する。
バキィッ! ドゴォォォンッ!
農民たちが何日もかけて掘り返す硬い岩盤や、深く根を張ったしぶとい雑草の根が、回転する鋼鉄の刃によって、文字通り「粉砕」され、塵となって舞う。
空高く跳ね上がる、黒く湿った土くれの雨。
大地が悲鳴を上げ、切り裂かれ、そして深さ数十センチにわたって、驚くほど均一に空気を含んだフカフカの黒土へと、強制的に「裏返されて」いく。
「あ……あぁ……」
農民の一人が、糸の切れた人形のように膝から崩れ落ち、耕されたばかりの土を両手で掬い上げた。
「土が……こんなに深く、柔らかく……! 俺の親父の代から、どんなに鍬を振るっても石ころばかりだったこの土地が……まるで、最高の苗床みたいじゃねえか……!」
蒸気の重低音と、土を噛み砕く刃の咆哮が、荒野の静寂を完全に支配していた。
俺は耕運機の上から、唖然として立ち尽くす農民たちを冷徹に見下ろした。
「俺が用意した黄金の種もみを、この土に蒔け。そして俺が構築した水路から、大森林の魔力水を引け。……秋には、お前たちが一生かかっても見たことがない量の、黄金の波を見せてやる」
圧倒的な暴力による、大地の蹂躙。
そして、その直後に約束される、狂気的なまでの豊穣。
農民たちの瞳から、古い神への虚しい祈りが完全に消え去り、目の前の黒煙を吐く鉄の獣と、それに乗る十歳の少年への「絶対的な狂信」が宿り始めた。
「トール様……! 我らが神よ……!」
泥に額を擦りつけ、波打つようにひれ伏す農民たち。
俺は熱を帯びた黒い金属棒を肩に担ぎ、鼻腔を突く石炭の焦げた匂いと、春の湿った土が混じり合う、支配の香りを深く吸い込んだ。
「……これで、衣・食・住のすべてが俺の規格に染まる」
単位面積当たり収穫量三倍。
その予測は、もはや希望的観測ではない。物理と魔法が融合した、この絶対的な演算が導き出した結果だ。
秋が来れば、城塞都市は自らの胃袋を満たすだけでなく、溢れんばかりの穀物を他国へと「輸出」し始めるだろう。
食糧という命の根源を俺が握った時、周辺諸国の王侯貴族たちは、剣を交えるまでもなく、俺の前にひざまずき、自ら首輪を差し出すことになる。
「さあ、世界よ。俺が蒔いたこの黄金の種に、せいぜい水と汗を与えて生き永らえろ」
春の柔らかな日差しが、黒煙の向こうで青く光る鱗羽鎧を妖しく照らし出していた。
蒸気と鉄が大地を犯し、黄金の麦を孕ませる。その狂熱の祝祭の中心で、十一歳の絶対者は、完全なる飢餓の支配に向けて、残酷なまでに美しい支配者の笑みを深く刻み込んだのだった。




