第054話:狂熱の聖地と終わりのない円舞
『管理者権限:支配領域 Lv.5』。
百五十キロメートルに及ぶ広大な魔力網。そこから脳髄へ直接流れ込んでくる数万の脈動は、ここ数ヶ月で比較にならないほどの熱量と、圧倒的な質量を伴うようになっていた。
かつては高い城壁の影に隠れ、周囲の闇に怯えるだけの閉塞した小都市に過ぎなかった。だが今、その姿は生命力に満ちた巨大な「怪物」へと変貌を遂げている。
「人々が死なない都市」。
その抗いがたいブランド力は、大陸中の流浪の民、強欲な商人、腕利きの職人、そして血の匂いを嗅ぎつけた傭兵たちを、巨大な磁場のごとく吸い寄せた。
溢れんばかりの人と物資を飲み込み、城塞都市はその規模を四倍にまで膨張させている。押し広げられた外壁の先には、新たな市街地が幾重にも波紋となって広がり、絶え間なく建設の槌音が響いていた。
地下には俺が設計した浄化の脈動――上下水道が血管のように巡り、街から疫病の温床たる悪臭を完全に駆逐した。
白亜の大衆温浴施設に流れる微弱な雷魔法『電気風呂』が、労働者たちの強張った筋肉を解きほぐし、シスター・クレアが束ねる医療院の『慈愛の聖域』と活力のポーションが、本来なら死を待つだけの致命傷を「過去の出来事」へと変えていく。
飢えも、病魔も、過労による死もここにはない。
理不尽な暴力が支配するこの異世界において、それがいかに異常で、かつ甘美な「奇跡」であるか。
都市は不夜城のごとく夜通し煙と熱気を吐き出し続け、物流という名の血流が動脈を絶え間なく駆け巡る。巨大な加工所からは、俺の『神の蔵』から卸されるレッサーボアの極上肉と、芳醇なオークの香りを纏った酒樽が次々と出荷され、市場には商人の怒号にも似た歓声が朝から晩までこだましていた。
そして、その強靭な血流が向かう先――西へ百五十キロ離れた『迷宮都市タルタロス』へと一直線に伸びる「白銀の街道」だ。
かつては盗賊が跋扈する死の道。それが今や、裏社会の「忍者」による冷徹な監視と、モヒカン男率いる「自警団」の徹底的な警邏によって、小石一つ落ちていない絶対の安全地帯へと再定義されている。
城塞都市とタルタロス。二つの拠点は今や、一つの巨大な生命体として連結していた。
都市から流れ込む無尽蔵の食糧、酒樽、そして最新の武具。
代わりにタルタロスからは、命知らずたちが血反吐を吐きながら持ち帰った魔物のドロップ品や、俺がハッキングしたマザー・コアが吐き出す魔石が、濁流となって還流してくる。
大河の行き着く最前線――迷宮都市タルタロスは、今や一攫千金を夢見る者たちの、狂熱の「聖地」と化していた。
だが、俺の隠れ家の最上階。アンティークの執務机に置かれた琥珀色の魔酒を指先で揺らしながら、俺の瞳には拭い去れない冷徹な「ノイズ」が映っていた。
「……防衛網の自動化は完了した。だが、まだ俺のシステムには不愉快な『手作業』が残っている」
月光を吸い込む『蒼黒の鱗羽鎧』の冷たい感触を確かめ、俺は低く呟いた。
汎用品の生産はスラムの「先行市民」たちが回している。だが、王都の貴族が金に糸目をつけずに欲しがる『銀の獣』の流麗な毛皮や、俺自身の装備を拡張するための『ギア・クロウ』の鉄羽といった「最上位素材」の調達は、いまだに俺自身が森や迷宮に足を運び、この手を血に染めるしかなかった。
三十代の社畜として、理不尽な満員電車に揺られ、血反吐を吐きながら夢見た「完全不労の筆頭株主」――究極のゼロタッチ・オペレーション。
その完成のためには、この最も危険な「現場作業」すらも、俺の手から完全に切り離す必要がある。
「……集まったな」
俺の短い呼び出しに応じ、分厚いオーク材の扉が音もなく開いた。
現れたのは、表の経済を司る大商人グレンと、医療と福祉の象徴であるシスター・クレアだ。
二人は静寂の中に膝をつき、深い敬意と共に頭を垂れた。
「お呼びにございますか、トール様」
「ああ。今日は、この帝国を最終段階へと押し上げるための『究極の戦略』について話す」
俺は立ち上がり、壁に掛けられた巨大な広域地図へと歩み寄った。西の果てにある巨大なクレーター、迷宮都市タルタロスを指先で叩く。
「冒険者を惹きつけてやまないタルタロス。今、あそこには大陸中から命知らずが集まっている。だが、彼らが持ち帰る極上の素材を、俺がいちいち買い叩きに行ったり、あるいは自分で狩りに行ったりするのは非効率の極みだ。……彼らの方から、自発的に、狂ったように俺の蔵へ最高級の素材を貢がせる仕組みを作る」
「冒険者が、自発的に……でございますか?」
グレンが、商人の鋭い嗅覚を刺激されたように顔を上げた。
「そうだ」
俺はシスター・クレアとグレンを見据えた。
「戦略の核――アイディア1:究極の『帰還の快楽』による搾取の無限ループだ」
俺の冷徹な声音が、密室の空気を凍てつかせる。
「タルタロスの入り口に直結させる形で、温浴施設、医療院、そして『琥珀の魔酒』を提供する巨大な酒場を建設しろ。迷宮で死の恐怖と極度のストレスに晒された冒険者たちは、帰還後、この圧倒的な癒やしと快楽に全財産をつぎ込むことになる。彼らは稼いだ魔石を一晩で使い果たし、『またあの快楽を味わうために』と、翌日には自らの意志で狂ったように迷宮へ潜っていく。依存という名の、終わりのない労働と浪費のループだ」
静寂が、執務室を支配した。
グレンは、あまりにも恐ろしく、そして完璧な「欲望の錬金術」の構造に、歓喜で全身をガタガタと震わせていた。
「な、なんと……! 死地からの生還という極限の緊張を、そのまま『最高のスパイス』として快楽に変換するのですね……! 冒険者どもは、稼いだ端から我々の施設で金を落とし、一文無しになってまたダンジョンへ潜る……。これでは彼らは、永遠に我々のために上位素材を狩り続ける『死なない奴隷』!」
商人の狂喜が、グレンの貌を醜く歪ませる。
だが、対照的にシスター・クレアは、その純白の修道服の胸元を強く握りしめ、灰色の瞳に深い絶望を浮かべていた。
「トール様……それは……あまりにも残酷です。私の『慈愛の聖域』も、医療院も、人々を苦しみから救うためのもの。それが、彼らを再び死地へと駆り立てるための『劇薬』として使われるなんて……」
彼女の声は小刻みに震えていた。彼女の純粋な善意が、巨大な搾取の歯車として完璧に組み込まれていく事実に、魂が軋みを上げている。
「クレア。残酷だと? 笑わせるな」
俺は冷たく言い放ち、彼女の瞳を射抜いた。
「彼らは誰に強制されるわけでもない。自らの意思で、喜んで迷宮に潜るんだ。傷の手当てもされず、安酒に苦しみながら野垂れ死ぬよりも、極上の温もりと酒に溺れ、最高の気分で戦場に向かう方が、彼らにとっては圧倒的な『幸福』なんだよ。お前の癒やしがなければ、彼らはただの使い捨ての肉塊として死んでいくだけだ。……違うか?」
「っ……」
クレアは唇を強く噛み締め、俯いた。彼女の治癒魔法が命を繋ぎ止めることは事実だ。だが、それが終わりのない死への行進を加速させるという現実に、彼女は抗う論理を持たなかった。
「グレン。すぐに施設の建設に取り掛かれ。冒険者が上位素材を持ち帰るたび、VIP待遇で最高の快楽を与えてやれ。最上位の素材ほど、分不相応な快楽と交換できると学習させるんだ。……すべてを自動化するぞ」
「ははぁッ! 承知いたしました!」
***
それから数週間後。
迷宮都市タルタロスの入り口に建設された巨大な『帰還者複合施設』は、想像を絶する熱狂と喧騒の渦に包まれていた。
迷宮の最奥から、血と泥と魔物の体液にまみれて這い上がってきた冒険者たち。
「おおおぉぉッ! 生きて帰ってきたぜェェッ!」
重傷を負って担ぎ込まれた剣士が、煌びやかな医療院のベッドに寝かされる。シスター・クレアの配下が『活力のポーション』を惜しみなく使い、聖域の余光を浴びせることで、骨にまで達していた裂傷は数秒で塞がり、死色だった顔に血色が戻る。
「す、すげえ……! 腕が千切れかかってたのに、新品みてえだ!」
「さあ、次は風呂だ! 電気風呂が待ってるぜ!」
全快した彼らは、そのまま白亜の温浴施設へと雪崩れ込む。
魔力水に満たされ、雷魔法が心地よく痺れさせる『電気風呂』。死の恐怖で凝り固まっていた筋肉から、疲労という負債がドロドロと溶け出していく。
「あああぁぁぁ……! た、たまんねえ……! 迷宮の地獄が、全部溶けていく……!」
そして総仕上げは、隣接する巨大な酒場での狂宴だ。
「親父! これが命懸けで獲った『上位魔石』だ! 一番いい酒と肉を持ってこい!」
「毎度あり! 『極上・琥珀の魔酒』に、特選フィレ肉だ!」
グレン商会の手代が、命の結晶を「対価」として受け取り、代わりに黄金の液体を提供する。
度数の高いスピリッツと、ルミナス・トレントの甘みが脳髄を直接愛撫する。死線から生還したという極限の興奮が、その快楽を何百倍にも増幅させていた。
「俺……生きててよかった……! この酒のために、俺は戦ってるんだ!」
彼らは稼いだ全てを、ただ一晩の宴のために吐き出す。
朝になれば、財布は見事なまでに空っぽだ。
だが、後悔の色など微塵もない。
「よっしゃァ! 今日もあの電気風呂と魔酒のために、迷宮の奥まで潜って、ドデカい奴をぶっ殺してくるぜ!!」
彼らは熱狂と共に、血走った眼で武器を取り、自らの意思で漆黒の迷宮へと飛び込んでいく。
恐怖などない。あるのは、死線の向こうで待つ「究極の快楽」への狂おしいまでの渇望だけだ。
***
俺は隠れ家の最上階から、『支配領域』を通じてその完璧なサイクルを冷徹に俯瞰していた。
クリスタルグラスを傾け、琥珀色の液体を喉に流す。
「……素晴らしい」
俺が指一本動かすことなく。
俺が自ら危険な迷宮に赴くことなく。
「快楽」という名の餌に釣られた冒険者たちが、全自動で最上位の素材を俺の蔵へと貢ぎにやってくる。
医療、インフラ、食糧、嗜好品。
すべてを掌握し、人間の根源的な欲望をシステムの歯車として組み込んだ。
属人化の徹底的な排除。
三十代の社畜が夢見た「究極のゼロタッチ・オペレーション」の到達点が、今、この異世界に完成したのだ。
「さあ、世界よ。俺が敷いたこの甘美な無限ループの中で、永遠に命を削り続けろ」
二つの銀月が輝く夜空の下。
すべてを掌握した十歳の絶対者は、欲望の炎が渦巻く狂熱の聖地を見下ろしながら、底知れぬほど不敵で、冷酷な笑みを深く刻み込んだ。




