第040話:麦秋の接待と傲岸なる防壁
黄金色に波打つ冬小麦の海が、吹き抜ける初夏の風に揺れてサラサラと心地よい音を立てている。
城塞都市の周辺に広がる農地では、待ちに待った収穫の時が訪れていた。かつての、重税と飢えに怯え、泥を啜るような絶望に沈んでいた農民たちの姿はどこにもない。グレン商会を通じた俺の「段階的掌握システム」は、彼らの労働を確実な富と、そして明日への希望へと変換させていた。街の広場からは、かつてない規模の収穫祭が放つ、熱狂的な喧騒が風に乗って届いてくる。
隠れ家の最上階。開け放たれた窓から吹き込む風は、乾いた土の匂いと麦の香ばしさ、そして焼きたてのパンのような温かな香りを運んできた。
俺はアンティークの椅子に深く腰掛け、氷を浮かべた琥珀色の魔酒を指先で弄んでいた。グラスの表面を伝う冷たい結露が指先を濡らし、揺らすたびに氷が「カラン」と、硬質な、それでいてどこか虚無的な音を立てる。
「……完璧に回っているな」
レベル10に至り、俺が獲得した新たなる権能――『管理者権限:支配領域(アドミニストレーター:ドメイン)』。
まぶたを閉じ、意識を街の地下へ、空へ、路地裏へと這わせる。
俺の脳裏には、地下水道を流れる浄化の脈動、巨大工場から吐き出される蒸気の熱、そしてスラムの『先行市民』たちが放つ狂信的な命の律動が、青白い魔力のラインとして克明に可視化されていた。俺の帝国は今、一つの巨大な生体機構として、極めて健全かつ暴力的なまでの活力をもって呼吸している。
だが、その甘い平和を切り裂くように、重厚なオーク材の扉が乱暴に叩かれた。
「トール様! 緊急の事態でございます!」
部屋に転がり込んできた大商人グレンの顔は、死人のように土気色に染まっていた。額からは滝のような冷や汗が流れ落ち、高級な服を湿らせている。
「騒々しいな。グラスの氷が溶ける。何があった」
「ほ、報告が……! 王都より、この街の領主ボルガ伯爵の『寄り親』、ヴァルデマール侯爵が……視察と称し、重装の騎士団を伴ってこちらへ向かっているとの先ぶれが届きました!」
ヴァルデマール侯爵。王国の財務を掌中に収め、冷酷な搾取でその地位を築いた大貴族。ボルガ伯爵にとっては、逆らうことなど想像すらできない絶対的な上位者だ。
「視察、ね。……目的は明らかだな」
「はい……! この街の異常な経済成長。大陸中に名を轟かせ始めた『魔酒』や高級毛皮の噂。侯爵の貪欲な耳がそれを見逃すはずがありません! 万が一、工場や流通の権利を奪われれば、我々の帝国は……!」
グレンは絶望に顔を歪め、絨毯に両膝をついた。無理もない。この封建社会において、上位貴族の命令は絶対だ。だが、俺はグラスの縁に唇を当て、芳醇な魔酒を一口含んでから、冷たく鼻で笑った。
「グレン。……俺たちは、何もしない」
「……は? な、何もしない、とは……? トール様の雷魔法で、軍を密かに殲滅なさるのでは……!?」
「馬鹿を言うな。そんなことをすれば王国との全面戦争だ。今回の件は……すべて、ボルガ伯爵に『丸投げ』する」
「ま、丸投げ……!? 閣下は侯爵の犬同然ですぞ! 凄まれれば、二つ返事で我々の利権を差し出してしまいます!」
恐怖で声を裏返らせるグレンに、俺はかつて三十代の社畜時代に叩き込まれた、冷酷な組織論の解を突きつけた。
「グレン。お前は『依存』と『万能感』という鎖の強さを甘く見ている。今のボルガ伯爵は、背後に『俺』という絶対者がついていると信じ切っている。無敵の虎の威を借る狐が、かつての飼い主にどう牙を向くか……見物だぞ」
***
数日後。
街の大通りを、王都からの威圧的な軍靴の音が踏み鳴らした。
豪奢な馬車から降り立ったヴァルデマール侯爵は、冷酷な爬虫類のような双眸で、活気に満ちた都市を見回した。
領主の館、最上階の謁見の間。
『支配領域』の視覚共有を通じて、俺は隠れ家のソファに座ったまま、その密室の劇を冷徹に鑑賞していた。
かつてのボルガ伯爵であれば、脂汗を流しながら平伏していたはずだ。だが、侯爵の前に立つ男は、豪華な椅子から立ち上がることすら選ばなかった。魔力シロップと電気風呂の効果で、肌は若々しい艶を放ち、その瞳には自分こそが世界の中心であるという傲慢な光が宿っている。
「遠路はるばるご苦労様です、ヴァルデマール様。いやはや、街の運営が忙しく、出迎えの礼を欠いたこと、平にご容赦いただきたい」
「……貴様、自分が誰に向かって口を利いているか分かっているのか?」
「もちろんですとも。さあ、堅苦しい話は後回しに。我が都市が誇る至高の『接待』を、とくとご覧にいれますぞ」
そこから、ボルガ伯爵による「支配者の余裕」を見せつけるための、三日三晩にわたる接待が幕を開けた。
一日目。晩餐会のテーブルには、大森林で狩り立ての特選フィレ肉と、黄金色に輝く『琥珀の魔酒』が並べられた。侯爵は最初こそ毒を警戒していたが、一口肉を口に運び、魔酒を煽った瞬間、その爬虫類のような眼を限界まで見開いた。喉を焼き尽くす熱と芳醇なバニラの香り、そして全身の魔力回路が強制的に若返るような暴力的なまでの快楽。
二日目。伯爵は侯爵を伴い、清潔な街へと繰り出した。巨大なレンガ造りの工場地帯、地下に張り巡らされた血管のような上下水道。行き交う市民たちの、熱狂的な崇拝の眼差し。
そして三日目。接待の総仕上げとして、伯爵は侯爵を白亜の温浴施設の最上階、貴族専用スパへと案内した。大森林の魔力水、そしてそこに流れる微弱な低周波の雷――『電気風呂』。
湯に肩まで浸かった侯爵は、蓄積された老いと疲労が筋肉の深部からドロドロと溶け出していく感覚に、魂が抜けたような溜息を漏らした。
「あぁぁ……。極楽だ……。この湯は、魔法か……」
「いかがですかな? この究極の癒やし。……これもまた、私と『後ろ盾』の強固な繋がりがあってこそ実現できる奇跡なのです」
湯煙の中で、ボルガ伯爵は侯爵に向けて、勝者の優越感に満ちた笑みを浮かべた。
再び、謁見の間。
骨抜きにされかけながらも、侯爵は自らの強欲さを奮い立たせ、本題を切り出した。
「ボルガよ。……素晴らしい街だ。だが、これほどの利権を一介の伯爵風情が独占するなど、王都が許さん。我が派閥の資金源として、その製造施設と流通の全権を、これより本家が預かることとする!」
侯爵の背後で、近衛騎士たちが剣の柄に手をかけた。重苦しい金属の擦れる音が響く。
だが、ボルガ伯爵は怯えるどころか、腹の底から愉快そうに笑い声を上げた。
「あははははっ! ヴァルデマール様、ご冗談を!」
「……何が可笑しい」
「お分かりになりませんか? この都市は、すでに一つの巨大な生き物なのです。食糧、酒、インフラ、そして絶対的な防衛力……。これらすべてが複雑に絡み合ったこの富は、私でなくてはコントロールできません!」
ボルガ伯爵は、かつての主を見下すように、傲岸不遜な態度で言い放った。
彼の背後には、俺のシステムから流れた資金で武装し、魔酒の恩恵を受けた狂信的な私兵たちが、音もなく侯爵の騎士たちを取り囲んでいた。彼らの瞳には、主人の命令一つでいつでも命を捨てる準備ができている者の、空虚で凶暴な光が宿っている。
「力ずくで奪おうとすれば、この街のシステムは一瞬で崩壊し、あの極上の魔酒も、癒やしの湯も、永遠に失われる。ヴァルデマール様……あなたには、この都市を統べるなど100年早いわ!」
圧倒的な「狂気と自信」に気圧されたヴァルデマール侯爵は、屈辱に顔を歪めながらも、流血の事態を避けて撤退を宣言せざるを得なかった。大軍はそのまま、尻尾を巻いて王都へと引き返していった。
***
「……くくっ、ははははっ!」
隠れ家の最上階。『支配領域』の接続を切り、俺はグラスに残った魔酒を一気に飲み干した。
「ト、トール様……! 本当に、伯爵が侯爵軍を追い返してしまいました……!」
報告に駆けつけたグレンが、信じられないものを見たというように震えている。
「言っただろう、グレン。彼は今、自分がこの都市の唯一無二の支配者だと心底信じている。背後に俺がいる限り、自分は無敵なのだと。……だが、それすらも俺が設計した『システム』の一部に過ぎない」
俺は窓辺から眼下の街を見下ろした。
夕闇の中、領主の館ではボルガ伯爵が、自らの手で上位者を追い払ったという肥大化した万能感に酔いしれている気配が伝わってくる。
俺は自ら手を下すことなく、一切の血を流すこともなく、最大の政治的危機を「全自動」で排除したのだ。
「社畜時代……俺が血反吐を吐いて夢見た究極のシステム。それは、『他人が勝手に、俺の利益を守るために死に物狂いで戦ってくれる』構造だ」
俺の帝国は、ついに外部の巨大権力すらも自動で弾き返す、完璧な自律防衛機構を備えた。
「戦国時代の堺を超える、絶対的な自治都市。……さあ、次は俺から仕掛ける番だ」
初夏の夜風が、麦の香りと共に勝利の余韻を運んでくる。文明社会の理を完全に食い破った十歳の絶対者は、王都の方角を冷徹に睨み据えながら、不敵な笑みを深く、その身に刻み込んだ。




