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遠雷のオーバーロード〜10歳の転生者は『雷魔法』と『神の蔵』で自由な自治都市を創る〜  作者: トール
第一章:大森林のサバイバルと雷霆の覚醒

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第037話:浄化の脈動と支配の水脈

 


 冬の冷酷な縛めが緩み、城塞都市に湿り気を帯びた春の息吹が混ざり始めた頃。


 街は白銀の清廉な仮面を脱ぎ捨て、醜悪な現実をその腹の底から吐き出し始めていた。雪解け水は路地の乾いた土と混ざり合い、スラム全体をどす黒く粘りつく泥濘ぬかるみへと変え、歩くたびに「じゅるり」と不快な音を立てて足元を絡め取る。そこから立ち昇るのは、ひと冬の間に凍結・蓄積されていた排泄物と、朽ちた残飯が放つ、喉の奥を刺すような濃厚な腐敗臭だった。


 隠れ家の最上階。重厚なビロードのカーテンを指先でわずかに開き、俺は眼下に広がるその汚濁を見下ろしていた。

 鼻腔を突く、吐き気を催すような甘ったるい死の匂いが、窓の隙間から這い上がってくる。


「……疫病の兆し、か」


 俺は黒い金属棒を指先で弄びながら、温度のない声で呟いた。

 三十代の社畜として、企業の損益分岐点を血の滲むような思いで計算し続けてきた俺の脳裏に、真っ赤な警告ランプが点滅している。


 冬の間に確立した「自動生産の歯車」は、今や完璧なリズムで駆動している。だが、労働力という名のリソースが住む環境がこのまま腐海に沈めば、遠からず赤痢やコレラといった目に見えぬ死神が街を席巻するだろう。

 労働者は、俺の帝国を駆動させるもっとも安価で重要な部品だ。病という「バグ」で欠勤(死)が相次げば、生産ラインは停止し、資本の還流という名の血流が止まる。


「血流を整えたら、次は内臓の洗浄だ。……ザイード、グレン」


 背後の暗がりから、二人の男が音もなく絨毯の上に膝を突いた。


「お呼びにございますか、トール様」


 グレンの額には、いつものように冷たい汗が脂ぎって光っている。


「街の地下を掘り起こす。スラムから商業区、そして領主の館に至るまで、巨大な『血管』を張り巡らせるぞ」


 俺はアンティークの執務机に、新たな羊皮紙を広げた。そこに描き出されていたのは、中世の常識を根底から覆す、緻密な上下水道の設計図だ。


「スラムの悪臭は、ただの不快感ではない。俺の資産を食い潰す毒だ。まずは下水。各区画から汚水を集め、地下に張り巡らせた陶管を通して、街の遥か下流へと強制的に排出する」


「し、しかしトール様。それほど大規模な穴を掘り、管を通すとなれば、莫大な時間と労力が……」


「俺たちには、冬の間に組織化された無尽蔵の労働力がある。彼らに肉と酒を与え、泥を掘らせろ。さらに、大森林の木炭を忘れたか?」


 俺の言葉に、二人は息を呑んだ。


「終末処理場には、木炭と砂利を敷き詰めた巨大な濾過槽を幾重にも設ける。汚水はそこを通る過程で物理的に濾過され、悪臭も木炭の細孔に吸着される。……そして最後は、これだ」


 俺は黒い棒の先端から、青白い火花スパークを散らした。チリッ、という乾いた音と共に、独特の焦げたような、それでいて肺の奥が洗われるような清涼感のある匂いが密室に漂う。


「俺の雷魔法で極微弱な放電を水中に与え、『オゾン』を発生させる。木炭でも取り切れなかった病原菌を根本から焼き尽くし、無害な水として自然に還す」


 現代の科学的知見と、魔法による殺菌の融合。グレンは震える手で設計図を凝視し、そのあまりの合理性に畏敬を通り越して声を失っていた。


「そして、上水だ。あの大森林の奥深く……アクア・サーペントが棲んでいた、あの底知れぬほど透明な水。あそこから専用の水路を引き、街の各所に『公共給水塔』を建設する」


 数週間後。

 城塞都市の地下は、巨大な蟻の巣のごとく掘り起こされ、瞬く間に血管網が構築されていった。先行市民たちは、自らの住む泥濘を消し去るための労働に、狂信的なまでの熱意で取り組んだ。


 そして、ついにその「心臓」が最初の鼓動を始めた日。


 スラムの中央広場。真新しいレンガ造りの公共給水塔の前に、何百人もの住人たちが固唾を呑んで群がっていた。彼らの服にはまだ泥の汚れがこびりついているが、広場を支配していたあの不快な腐敗臭は、地下を流れる下水道の完成によってすでに消え去り、心地よい春の風が吹き抜けている。


 俺は月光を吸い込む鉄羽と青鱗の『蒼黒の鱗羽鎧スケイルメイル』を重厚に鳴らし、給水塔の前に立った。


「……開け」


 俺の静かな合図と共に、モヒカン男が鉄のバルブを力一杯に回す。

 ゴゴゴゴ……という腹に響く重低音が地下から突き上げ、次の瞬間。給水塔の蛇口から、白糸のような水が勢いよく、飛沫を上げて噴き出した。


「おおおお……ッ!」


 地鳴りのような歓声。俺は備え付けられた真鍮のカップにその水を受け、一番前で震えていた痩せこけた老婆に差し出した。


「飲んでみろ」


 老婆は節くれ立った両手でカップを受け取り、恐る恐るその液体を口に運んだ。

 その瞬間、彼女の濁った瞳が驚愕に見開かれ、大粒の涙がシワだらけの頬を伝い落ちた。


「あぁ……冷たい……。なんて冷たくて、甘いお水なんだろう……。泥の味がしない、お腹が痛くならないお水だ……!」


 老婆の言葉を号令に、住人たちが我先にと水に群がった。

 喉の奥を滑り落ちる清冽な感覚。大森林の魔力が微かに溶け込んだその水は、ただの水分補給ではなく、彼らの乾ききった細胞一つ一つを内側から浄化していくような、甘美な麻薬のようであった。


「トール様! トール様万歳!!」

「俺たちの守護者! 水の神様だ!!」


 狂乱の歓喜。彼らは泥水をすすり、腹を下し、子供を病で失う絶望の日々から、俺の「システム」によって物理的に救い出されたのだ。彼らの瞳に宿るのは、もはや畏怖ですらない。それは絶対的な依存、そして狂信であった。


「これで、スラムの労働力は完全に担保されたな」


 俺は水飛沫の冷たさを頬に感じながら、冷徹に口角を上げた。だが、俺の狙いは底辺の救済に留まらない。


「グレン」


「ははっ、ここに」


「この『極上の水』を、領主や貴族たちの館にも専用の管で引いてやれ。もちろん、彼らには莫大な『インフラ維持費』を請求する。ワインを割る水、身体を洗う水、彼らの生活のすべてを、俺の水なしでは成立しないように染め上げろ」


 水という、生命にとって最も根源的な物質。

 これを握るということは、彼らの首根っこに直接手を掛けるのと同じだ。琥珀の魔酒が「快楽の鎖」であるならば、この水は「生存の鎖」。一度清潔で甘美な水を知り、悪臭のない生活に慣れきった貴族たちは、再び糞尿の臭いに包まれることを想像しただけで、恐怖に発狂するだろう。


「……見事です、トール様。もはやこの城塞都市は、トール様の血液が巡る、あなた様自身の巨大な肉体も同然でございます」


 グレンの声は、心からの陶酔に震えていた。


「戦国時代の堺を超える、絶対的な自治都市。……外郭の防壁だけでなく、内臓の血管すらも俺の色に塗り替えた」


 夕陽が、噴き出す水飛沫を黄金色に染め上げ、俺の鎧の青鱗を妖しく輝かせている。

 三十代の社畜が異世界に打ち立てた冷徹なシステムは、泥濘の底辺から権力の中枢に至るまで、すべての命の根源を支配下へと収めた。


 蒼黒の鎧を纏う十歳の絶対者は、歓喜に沸く帝国を見下ろしながら、次なる世界の盤面へ向けて、不敵な笑みを深く刻み込んだ。

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