八頁目 秋桜の咲く夜に
「あの……神崎さん。これ頂いてもいいんですか? 私、約束破ってしまったし。それに黒田さんが約束守ったっていうのも意味が分かりません」
「何遍も言わすんじゃねえ。差し引いた五枚だっつったろ。とりあえずそいつを冒頭に書いてみろ。言った意味がわかってくらあ」
髪をぼりぼりと掻いている神崎は、早苗の隣で地蔵に変わり果てている黒田を見ながら次の煙草に火をつけた。もうこれきりだぜ、と言わんばかりに、ため息と共に煙を吐いている。
親しみが湧く甘い香りが近づき、その煙草の煙を散らした。
「では石田様、黒田様。契約は履行されました。今回は特別ですので、誓約条ニ項目にある期限の不利益は続行されます」
顔を赤くし、鼻の下を伸ばしている黒田の足を力の限り踏みつけた早苗は、誓約書の原本を手に笑みを湛えている春野にゆっくりと頭を下げた。
「つまり、付き纏い……ストーキングは続くということですね」
「左様です。有り体に申し上げれば」
足を擦っている黒田が「そんなの横暴じゃ――」と言い終わるのを、神崎の咳が許さなかった。
「あくまで誓約なので御了簡を。しかし、毎日の連絡は結構です。そして最後に石田様。定日はございませんが、あの件も努々お忘れなきよう」
その言葉を聞き、黒田を引っ張るように出口に向かった早苗に、伝法な大声が飛んできた。
「次来るときは俺にも宝来屋のようかん束で買ってこい! 栗は要らねえ」
振り返らない二人の前で、絡まっていた知恵の輪が解かれたような金属音が鳴った。
◆
「黒田は約束を守った」
神崎のこの言葉の真意は、五枚の原稿用紙の続きを書いていても未だにわからなかった。ただ単に殿岡姓を使わず、石田と呼んでいるだけだからだと思っていたが、神崎のことである。含意はあるはずだった。
早苗の前にある満寿屋の金赤と呼ばれる原稿用紙の通し番号は、四十九を数えていた。目安の五十頁まで、残り一枚となっていた。
過去に名を残した文豪が使用したこの原稿用紙は、新樹社と専属契約をしてから使い出した。理由は単純であり、先人たちにあやかりたいだけである。万年筆など使わない早苗にとって、使い勝手など二の次だった。
早苗は、朱色の罫線が引いてある原稿用紙で恋愛ものの短編を自宅で書いていた。一気呵成といってもいいほどの速筆だった。今まで早苗が殿岡瑠璃子として書いていた内容とは全くの別物である。等身大の女性心理をありのままに書き連ねたデビュー作は、重版が続いてベストセラーになった。それを踏襲しながら大人へと変貌を遂げる成長過程が、この十年で出した答えだった。早苗はそれを捨てた。
少し休憩を取ろうと、早苗は神崎に渡された都合七枚の原稿用紙を手に取った。もうすでに数十回は読み返しただろうか。
【https://ncode.syosetu.com/n4597ff】
黒田と初めて読み合わせを行ったときは、顔を真っ赤にして「こんなの、か、か、官能小説みたいじゃないですか」と原稿用紙を破こうとしていた。
しかし、早苗は激昂している黒田に「書きます。いえ、書かなきゃいけないんです」と言い、春野の真似をして、笑ってみせた。
そのやり取りを思い出し吹き出した早苗は、六頁目を読みながらある事に気付いた。それは、残暑の名残が肌を焼いている時に、冬支度を急かすような周到さだった。全て合点のいく布石を打たれていたのだ。名言を借りるなら、点が線になったということである。
「与謝野晶子……ね。じゃあ神崎さんは……キューピットなわけ?」
頬を手で覆い独りで身をよじらせていると、早苗のスマートフォンがテーブルに震えた。
【件名】
先日はありがとうございました。
【本文】
殿岡さん、いえ、石田早苗さん。
先日はお返事ありがとうございました。僕なりに咀嚼して、ようやく納得する事ができました。
もう、安西賢治としてあなたの前に立つことはないでしょう。与謝野晶子の真似ごとも致しません。
今後のご健勝をお祈り申し上げます。 あんざいけんじ
続けてスマートフォンが振動した。次は神崎からだった。
『書けたか? 書いたなら一度もってこい。特別に添削もしてやる かんざきせんり』
早苗は春野の笑顔を思い出しながら、神崎にだけ返信をした。
『承知致しました、神崎様。謹んで伺います。 石田早苗』




