七貢目
雨がその建物の不気味さを際立たせている。鈍色の外観は闇に目を光らす鼠のように色を濃くし、壁面を流れるいくつもの小さい滝が路面にその身を投げていた。
以前来たときに散乱していた郵便物はなくなっていたが、代わりに一人の老婆が入り口で早苗を出迎えた。パイプ椅子に腰掛けている老婆は煙草を楽しんでいるようだ。
「おや、これはかわいいお嬢さん。ひっひっひ。いらっしゃいな」
「あ、こ、こんにちは」
「あの口の悪い坊主かね。ひっひっひ。上にいるよ」
「……ありがとうございます。前、失礼します」
手刀を切り、早足で階段に向かった早苗の背中に、気色の悪い笑い声が届いた。
十日ほど前に初めて訪れた時も感じた事だが、このビル全体に生気が感じられなかった。五階の一室にある事務所以外は人の気配が全くなく、生自体を拒むように空気は重い。外界との交わりを断ち切っているような静けさは、足を踏み入れる者の血脈すら凍らせるようだった。
五階に着き、春野から「曰く付きです」と言われた扉の前に立った早苗は、ひとつ深呼吸をした。
すると、金属が何かから外れる音が階層に響き、続いて甲高い音と共に春野が姿を現した。
「お足元の悪い中、ようこそお越し下さいました、石田早苗様。どうぞ中へお入りください」
目尻と口の端が円で結ばれるような笑みを携えた春野は、相も変わらず楚々とした佳人だった。
一直線に伸ばされた細い腕により案内された早苗は、開かれた応接室に向かった。
主はすでにソファーに座っており、不機嫌そうに煙を遊ばせていた。
「よお。殿岡瑠璃子」
低いくぐもった声、三白眼を覆う厚い瞼、荒れ狂った寝癖、頬まで蓄えている無精髭、神崎その人だった。
金属同士の噛み合う音を確認した春野は、鼻唄を刻みながら別室に向かっていった。
「先日は……ありがとうございました」
「おう。今日はよく来れたじゃねえか。ちびって来ねえかと思ったぜ」
早苗は感情を殺して、睥睨している神崎から視線を外さなかった。
「はい。一応契約書にはサインしましたし――」
「契約書じゃねえ、誓約書だ。取り違えんな」
「あっ……そうでしたか。すみません、あの時は頭が混乱していて」
「まあいい。どのみちあんたにはもう逃げ道はねえんだ。メール読んだよな? 覚悟しろって書いてなかったか?」
「はい。書いてありました。心当たりは……山ほどあります。ははっ、本当に何でもお見通しなんですね」
表情を変えずに煙草を燻らせている神崎は、面白くなさそうに返した。
「ああ。俺の名前の通りだ。お釈迦様でも分からねえことすら分かっちまう。聞いたことぐらいあるだろ。千里眼、てやつだ」
「千里眼……ですか」
早苗の前にマグカップが音もたてずに置かれた。ココアを置いた春野は、十日前と同じ匂いがした。仄かに甘い、安らげる匂いである。この匂いがあるから神崎を目の前にして正気を保っていられるのではないか、と思わずにはいられない。
「今じゃ遠くまで見れるって謂れが専らだが、その実そんな生易しいもんじゃねえ。まあ細かくは言わねえが、とりあえずあんたの口から言ってみろ。あんたにはもう与信はねえ。契約不履行は決定だが特別に申し開きは聞いてやる」
ココアの湯気を目に浴びながらしばらく考えた早苗は、ゆっくりと話した。
記憶がないまま自宅に帰り、黒田にあらましを伝えたこと。その足で紀尾井町の喫茶店で安西という男に出会い、その翌日にはその安西からプロポーズをされた事も淡々と話した。
「ただ、現実味のないことばかり連日続いていたので、一週間ほど引き篭もってました。結局は黒田さんに助けてもらいましたけど」
神崎は何も言わない。ただじっと早苗を見ているだけである。一度春野を見ると、こちらも変わらず笑みを湛えたまま早苗を見ていた。
「だけどそれも断りました。とても誠実そうで信頼できそうな方でしたけど、黒田さんと縁を切るなんて私にはとてもできません」
「ほう。そうかい。んで浮ついて殿岡姓をつい使っちまった、と。俺との契約よりもよっぽど現実味があるように聞こえるがな。そっちの方がよかったんじゃねえか?」
早苗は昨日の事を思い出していた。安西と会うのはあれで最後だろう。
返事をすると伝えた日の夜、早苗は安西を紀尾井町の喫茶店に呼び出していた。場所は早苗が指定したのである。その店の前には安西が言っていた通り、赤紫色の秋桜が雨に濡れていた。
窓から一番離れた席で待っていた早苗は、前置きをせず安西にプロポーズの断りと謝罪を言った。安西は実は数日前から風邪をもらっていたそうで、白いマスク越しに咳き込みながら、「そうですか」と俯いていた。
その姿は、かつて見た凛然とした居住まいからは想像できないほど弱く、憐憫の念すら覚えるほどであった。
罪悪感を覚えつつも、最後に「黒田さんと一緒に進んでいきたいんです」と告げ、ブランドのロゴが印字された手提げを安西に渡し、一人で去った。
「いえ、あれでよかったんだと思います。ビジネスとして好機を掴むのか、一度きりとはいえ代筆で再起を図るのか、どのみち自力では這い上がれないのは同じですから。二者択一なら、黒田さんを失わないほうがいいと思いました」
「言うじゃねえか。練習したのか? なあ亜紀」
「――神崎様」
振り返ると、笑みを消し、鋭い眼差しを神崎に送る春野の顔があった。早苗が初めて見る春野の冷めた表情は、この建物よりも棘のある冷たさに思えた。
「んだよ、ったく。わかったよ。悪い悪い。もう試さねえよ。これでいいか、亜紀」
「申し訳ありません」
流れるような仕草で最敬礼の姿勢をとった春野は、再び笑みを作った。
「しかしさっきの言葉、もう少し……あと五分ってとこか。遅かったら面白くなってたのによ」
爆髪を掻きながら相好を崩した神崎は、次の煙草を口にした。
「さっきの言葉……ですか」
「ああ気にすんな。こっちの事だ。とりあえずあんたの言い分は分かった。殿岡姓を使っちまった事、連絡を怠った事、不履行には十分すぎる内容だ。少し考えるから待ってろ」
神崎は煙草をくわえたまま、パーテーションの裏に消えていった。
目の前のマグカップが応接室に甘い匂いを漂わせ、湯気を残している。
春野は微笑んだまま、何やら書類の作成に勤しんでいるようだった。
「春野さん」
「はい。いかがなされましたか」
「私、間違ってないですよね。そもそも代筆で再起なんて……正直世の中そんなに甘くないと思うんですが……」
「いえ石田様。先にもお伝え申しましたが、今一度神崎を信じて頂けませんか」
透き通る優しい声だ。気を抜けば号泣してしまうほどの暖かさがそれに含まれているようだった。
「……はあ。でも不履行とまで言われちゃったしなあ」
早苗が音をたててココアをゆっくり嚥下していると、入り口の扉が複雑な音を奏で出した。
「来たみたいだぜ」
「いらっしゃったみたいですね」
神崎と春野は同時だった。
春野が扉に向かい、甲高い音が響いた。
「お待ちしておりました。お連れ様はすでにいらっしゃっております。さあ、どうぞ中へ」
早苗が振り返ると、スーツが濃く変色している男が立っていた。現れたのは黒田だった。傘もささずに来たのだろうか、前髪がべったりと額に張り付いている。
「黒田さん! なんでここにいるんですか!」
「石田さんもです! なぜ僕に言ってくれなかったんですか」
「言ったでしょう! 今度ちゃんと話すって」
「それまでに何かあったら遅いじゃないですか。だから加納先生に宝来屋のようかんを山ほど買って教えてもらったんですよ」
「私に言ってくれればいいのに!」
「聞けば教えてくれましたか? 石田さん最近隠し事多いですよ!」
春野は口に手をやり体を震わせていた。
「うるせえ! いい加減にしやがれ!」
パーテーションの裏から怒号が飛んできた。そして影が大きく動き、神崎が紙を手に姿を見せた。
「あ、あなたが神崎……さんですか」
「てめえは黒田だな。いい度胸してんじゃねえか。人様の事務所で大声を上げやがってよ。おい! 亜紀! こいつには茶ァ出すんじゃねえぞ」
黒田はもやしのような体を精一杯怒らせて、ファイティングポーズを構えていた。そして早苗の前に立ち、弱く吠えた。
「い、石田さんに何かしたら、ぼ、僕が許しませんからね」
「ほう。何をどうしてくれるんだ。あ? てめえの十年考えて喧嘩売ってるんだろうな」
黒田は「ひっ」と小さい悲鳴をあげつつ、早苗の前から動かなかった。
「やめてください、黒田さん。何もされてませんし、むしろ何かされることもなくなるんです」
「どういう……ことですか?」
早苗が黒田をソファーに促すと、春野も続いて「一度お掛けください」と白い手を伸ばした。春野を見る黒田の顔がみるみる真っ赤に変わっている。黒田の脛をスニーカーで小突いてから、早苗は口を開いた。
「色々あって私が約束を破りました。だから契約が無くなりそうなんです。それを今神崎さんがどのようにするか考えてるところだったんです」
「約束破ったって、石田さん。何をしたんですか」
早苗が逡巡していると、再びソファーに座った神崎が答えた。
「殿岡姓を使った。連絡もよこさねえ。それだけだ」
だが、と続けた神崎は、手にしている紙をテーブルに投げた。
「黒田。てめえは約束を守った。この女は早々に反故にしちまったがな。だが最終的にはてめえを選んだ」
「僕を選んだ? どういうことですか」
「あと五分早けりゃ聞けたがな。後でこいつから聞いとけ。んでだ。選ばれたてめえは最後まで約束を守った。だからよ」
神崎はテーブルに投げた紙を火のついていない煙草で指した。
「お望み通り満寿屋の金赤に書いてやったぜ。やっぱりいい紙だ。過去何千枚と書いたが、染みが早くて滲みが少ねえ。あんたにゃ勿体ねえよ」
「これって。私の短編と同じ題名……」
二人が見慣れた原稿用紙がテーブルに置かれていた。
「契約した日数から差し引いた枚数、五枚の代筆だ。使え」




