六貢目
その後一週間、早苗は自宅のマンションを一歩も出なかった。
電気を点けずにひたすら寝て、腹の咆哮がひとしお大きくなったら何か口に入れ、消化を待たずにまどろみを待つ。ただ時が過ぎるのを待った。
目が覚めるとスマートフォンのチェックをする。するだけである。腹が減っていなければまた惰眠を貪る。その繰り返しである。どうせどこにも行かないのだから、神崎には予定を伝えていなかった。催促はないが、それが余計に早苗の暗鬱な気持ちを増長させた。
早苗は頭から毛布をかぶったままメールを確認した。未読が一件ある。アドレス帳に登録はしていないがもう覚えてしまった。安西からである。
【件名】
ようやく秋の陽気になってきました
【本文】
殿岡瑠璃子さん、体のお加減如何ですか。季節の移り変わりは体調にも変化を及ぼすものです。しばらくは静養することに専念してくださいね。
そういえば、紀尾井町のカフェの近くで秀麗な秋咲きのコスモスを見ました。薄い赤紫色の、なんとも可愛らしい様子で笑っていました。太陽の熱射にも負けずに。僕はまっさきに殿岡さんを思い出します。
快復されましたら、そのコスモスを見ながらカフェでウィンナーコーヒーでも飲みましょう。
お返事をお待ちしています。 安西賢治
安西からは十を超える似たようなメールが届いていた。最後に送られてきたのは、家に引きこもって七日が経過した朝、つい先ほどである。
今回も返信をするつもりはなかった。
最初に送られてきたメールには、『今は体調がすぐれません。もう少し待ってください。』とだけ返信をした。それでも早苗の体調を慮った内容を送り続けている安西のメールは、健筆家の恋文のように綺麗で流暢だった。
文字を眺めながら画面をただただ上下に動かしていると、新たなメールを受信をした。黒田からだった。
『石田さん!今日もふて寝ですか?もう一週間ですよ?神崎ですか?やっぱり神崎ですね?何かやられたんですか?加納のヤツは嘘を言ってたんですね。コラムの件で話があるのでいつものラウンジに来れませんか?それにしてもちょっと涼しくなりましたね! 黒鯛』
要件が定まっていない、デタラメなメールが早苗の目に飛び込んできた。小説に携わる人間としておおよそ作成は困難であろう文章を、何食わぬ顔で小説家に晒す人間は黒田を措いて他にいないだろう。
しかしたったそれだけの事なのに、暗鬱な夜の森に朝焼けの光芒が射し込むかのように、早苗の薄黒い心を晴れやかにした。頬は緩みっぱなしであった。
『クロダイさん、どなたですか?』
心とは裏腹なメールを送信した直後、インターフォンのチャイム音が暗い部屋に響いた。毛布を捨てキッチン横の液晶画面を見ると、肩で息をしているスーツの男が映っていた。
「はい。どちら様で」
「黒田ですよ、くろだ」
液晶画面越しでも分かるほど汗を光らせている黒田に向かって、早苗は思いきりとぼけてみせた。
「クロダイさんじゃないですか? 黒田さんなど知り合いにいません」
「は? 何を言ってるんです。顔を見てください。ほら、黒田ですよ」
液晶の画面いっぱいに汗だらけの黒田の顔が映し出されている。言葉の合間あいまに吐息で画面が曇り、はあはあと気色の悪い声ばかりがマイクに拾われている。
「さあ。クロダイさんはホテルに来い、とは仰ってましたが……。それに長い鼻毛が一本出ている方とは話したくないです」
「だからクロダイって……鼻毛?」
黒田は慌てた様子で鞄の中を弄り始めた。鏡でも探しているのだろう。外出するマンションの住人が訝しそうに黒田を見ている。堪らず早苗は、「嘘ですよ。今開けますね」と言い、吹き出していた。
黒田が部屋に到着した頃、ちょうど早苗も部屋着から外着に着替え終えたところだった。
黒田は「暑いですね」とごちながら、皺だらけのハンカチで汗を拭っている。涼しくなってきた、とついさっきメールで言っていた男の言動ではない。
「意地悪してごめんなさい。あまりにも突然だったし、色々気味が悪かったから。でも助かりました」
と早苗は口に手を当て、ぞんざいな礼を言った。
「助かるって、やっぱり何かあったんですね。だからこうして身を隠していた、と。つまりこういう事ですね」
黒田は中空を見つめ、腕を組みながら唸っている。湧き出る汗が高くない鼻稜に流れ、揉みくちゃにされたハンカチが手で潰れていた。
「黒田さん。サスペンスか推理小説でも読んでいるんですか? 似合わないからその言い方やめてください」
早苗は再び吹き出していた。気の抜けた黒田の顔が滑稽に見えて仕方がなかった。
「いえね、ちょうど時間が少し空いたものだから、公募作の下読みも手伝わされていまして。サスペンスや推理系だったのでつい……。気分は明智小五郎になってました」
「黒田さんらしいですね、そういうところ。さっきのメールだって驚きましたよ。来いと命令してきたのに自分から現れちゃうし、何を言ってるか全くわからなかったメールでした」
「ははは、いや面目ない。気になって仕方なかったから、文字打ちながら走ってました。気付いたらシティホテルではなくここに着いてましたよ。無事で何よりでしたけどね」
「そういえば黒田さん、最近釣りしました? もしくは釣り好きな人とメールした、とか」
「ええ。そうですが、なぜ分かったんですか? 次の休みで沖釣りの計画を知り合いと立ててたんですが……。えっ? まさか、石田さんも推理とかそっち方面で――」
はあ、と早苗は息を吐いた。ふと、安西の言葉を思い出した。黒田と手を切れるか。いや、そんなことは神に誓ってできまい。十年の月日は決して無駄ではないはずだ。この男はいつだってそうなのだ。溢れる汗は全て殿岡瑠璃子のために流され、走り廻った足の水ぶくれは全て殿岡瑠璃子の小説に還元されている。その痛ましい軌跡を文字に変えていたのは紛れもなく早苗自身だった。
「黒田さん」
「なんですか? いきなりの方向転換ではなく、少しづつですね――」
「黒田寛治さん!」
黒田は眦を決した早苗の言葉にびくんと体を震わせ、「な、なんでしょう」と小さく答えた。時を打つ壁掛け時計の乾いた秒針は、いつもよりゆっくり、しかし確実に過去を遠くに運んでいるようだった。
「私、決めました」
「へ? な、何をですか? ミステリー作家……じゃないですよね」
「ふざけないでください! これからの事です」
「すみません」と項垂れた黒田は、猫よりも背中を丸めている。
「色々と決めました。実は最近、ある出来事が起こりました。時期が来たら黒田さんにもお伝えしますが、今は言えません。言えませんが、黒田さん。これからもあなたを頼りにしています。それだけははっきりと、今ここでお伝えします」
「あ、は、はい。こちらこそです。はい」
黒田は初めて早苗に啖呵を切られたのかも知れない。言い合いや齟齬による口喧嘩こそすれ、相対して眦を裂いたことなどなかった。その反動からか弱々しい返事をしていたが、早苗がその意思確かに黒田を見つめると、握られているハンカチが堅く小さくなっていった。
「それでひとつお願いがあるんです」
「はい! な、なんでありますか!」
黒田は勅令を賜った過去の英霊のように背筋を伸ばした。
胸の鼓動音を黒田に悟られまいと、早苗は間髪を入れなかった。顔は火を吹いているに違いない。
「今度、こ、こ、コスモスを一緒に見に行ってください。それから、カフェで……一緒にウィンナーコーヒーを飲んでください」
早苗は思わず頭を垂れていた。
その矢先、テーブルの上にある早苗のスマートフォンが暴れだした。
このタイミングはもしかしたら、と早苗は黒田の返事を聞かず、スマートフォンを手に取った。画面には
『時間できたら事務所に来い。覚悟しとけ K』
と表示されていた。
すぐさま今日行く旨を送信すると、数秒も経たないうちに、『今日は別のところに行け そっちが先だろ K』と伝法に返ってきた。
やはり何もかもお見通しなのか。思いあぐねる早苗は、固まったまま地蔵と化した黒田に向き直り、「ごめんなさい」と口先だけで呟き、スマートフォンに指を添えた。
『安西さん。色々とご心配お掛けしました。お返事します。今日会えませんか? 石田早苗』
壁掛け時計の音が、一瞬止まったように思えた。
「石田さん。何がなんだかさっぱり分からないのですが……。メールは神崎ですか? それと……コスモス? ああ、短編のことですね! コスモスの見えるカフェで打ち合わせを、という魂胆ですか! ははん。なるほどワトスン君、僕には分かってしまったよ!」
「黒田さん、それ本気で言ってます? だとしたら鈍感にもほどがあります。黒田さんの……馬鹿。緊張を返せ」
小さく窄んでいる黒田を嘲笑ったのは、早苗の手の中で振動したスマートフォンだった。安西からだった。
【件名】
お返事ありがとうございます
【本文】
殿岡瑠璃子さん。いえ、石田早苗さんと仰るんですね。
本名をお教え頂いたという事は、前進した、と捉えて構いませんか? だとしたら嬉しくて舞い上がる想いです。
たまたま仕事も早く切り上げられそうですから、今日の夜は空けておきます。一日千秋の想い、とはこの気持ちなのでしょうね。
それではまた今夜。 安西賢治
「黒田さん。今日夜に出かけます」
「そうですか。僕は……またホームズにでもなります」
さらに小さくなった黒田は何か思い付いた顔をして鞄を引き寄せた。
「忘れてた。これ、良かったら」
豪奢な金帯に巻かれた金塊のような物体が、純白の箱に収めらている。
「これは? もしかして……」
「はい。宝来屋の栗ようかんです」
早苗は「うそっ! きゃー!」と一等大きく叫び、黒田に抱きついていた。




