月を食べた少女
その国では、死者は月へ行くのだと言われていた。
だから人が死んでも墓は作らない。
遺体を白い布で包み、夜明け前に最も高い丘まで運ぶ。そして、銀色の鈴をひとつ胸元に置き、月明かりの下に残してくる。
鈴は死者を月へ導くものだと、古くから伝えられていた。けれど、その音を聞いた者は誰もいなかった。
朝になれば、遺体は消えている。
獣が食べたのだと言う者もいた。
夜のうちに墓守が運び去るのだと言う者もいた。
けれどこの国の人々は、誰も確かめようとはしなかった。
死んだ人は月へ行く。
そう信じたほうが残された者にとって都合がよかったから。
王都の外れに、イリヤという少女が暮らしていた。
十三歳。
母親と二人暮らしで、父親の顔は知らなかった。
貧しかったが、不幸ではなかった。
母は縫い物が上手だった。
夜になると窓辺で針を動かしながら、よく月の話をしてくれた。
月には大きな湖があること。
湖畔には白い花が咲いていること。
死んだ人々はそこで年を取らず、痛みもなく、愛する人がやって来るまで待っていること。
「じゃあ、お母さんが死んだら、そこで待ってる?」
幼いイリヤが尋ねると、母は笑った。
「もちろん」
「百年でも?」
「千年でも」
「私、おばあちゃんになっちゃうよ」
「分かるわよ。どんな顔になっても」
母は針を置き、イリヤの額に口づけた。
「だって、あなたのお母さんだもの」
その母が死んだのは、冬の終わりだった。
流行病だった。
最期の三日間、母はほとんど口を利かなかった。
それでも、イリヤの手だけはずっと握っていた。
夜明け前に母の指から力が抜けた。
イリヤは泣かなかった。
ただ、窓の外を見つめた。
細い月が浮かんでいた。
――待っていてくれる。
そう思った。
※
村人たちは母を丘へ運んだ。
白い布。
銀の鈴。
月明かり。
決まりどおりだった。
鈴を置くとき、村人のひとりが「音を立ててはいけない」と小声で言った。月へ届く鈴の音は、生きた者には聞こえないのだという。
翌朝、イリヤが丘へ駆けていくと、母はいなかった。
鈴だけが落ちていた。
拾い上げると、ひどく冷たかった。
それから少女は月へ行く方法を探し始めた。
古い本を読んだ。
旅人に尋ねた。
森の魔女を訪ねた。
百年以上生きているという占星術師にも会った。
誰も方法を知らなかった。
あるいは、知っていても教えなかった。
「生きた者は月へ行けない」
皆、同じことを言った。
それでも、イリヤは諦めなかった。
三年が過ぎて少女は十六歳になった。
そしてある夜、王都の地下に住む盲目の老人から、ひとつの伝説を聞いた。
月を食べればよい。
「月を?」
老人は頷いた。
月光を百夜集め、銀の杯に満たす。
そこへ自分の血を一滴落とし、飲み干す。
そうすれば、身体は光となり、月へ昇る。
「本当に?」
「昔の話だ」
「嘘?」
「昔話とは、真実が忘れられた後につけられる名前だよ」
イリヤには、それで十分だった。
※
雨の日も、雪の日も、少女は銀の杯を抱えて丘へ登った。
月の出ない夜には泣いた。
それでも待った。
やがて季節が巡り、百夜目が来た。
満月だった。
銀の杯には、淡い光が満ちている。
イリヤは指先を切った。
血を一滴、光の中へ落とす。
赤はゆっくりと溶け、消えた。
「お母さん」
少女は笑った。
そして月を飲んだ。
身体が透けていく。
指先から腕、肩、胸
痛みはなかった。
むしろ温かかった。
春の日、母の膝で眠ったときのようだった。
足が地面を離れた。
丘が遠ざかる。
村が小さくなる。
森も、川も、国も。
少女は笑った。
ようやく会える。
十六歳になった自分を見て、母は驚くだろうか。
髪が伸びた。
背も少し高くなった。
縫い物は、結局あまり上手にならなかった。
話したいことが山ほどあった。
少女は月へ昇った。
そして、知った。
月には湖などなかった。
白い花もなかった。
死者もいなかった。
そこにはただ、途方もなく広い灰色の荒野があった。
音もない。
風すらない。
空には、青い星がひとつ浮かんでいた。
自分が生まれた世界だった。
「お母さん?」
返事はない。
「お母さん」
歩いた。
どこまでも歩いた。
ずっと母を呼びながら。
何日歩いたのかは分からない。
月には朝も夜もなかった。
腹も減らなかった。
眠くもならなかった。
少女の身体は、もう半分ほど光になっていた。
やがて、荒野の果てで銀色のものを見つけた。
鈴。
ひとつではない。
数え切れないほどの銀の鈴が、灰の上に散らばっていた。
死者の胸元に置かれてきた鈴。
イリヤは震える手で、そのひとつを拾った。
小さな傷があった。
知っていた。
母の鈴だった。
丘で拾ったはずなのに。
ずっと自分の家に置いてあったはずなのに。
それがここにある。
少女はようやく理解した。
死者が月へ来るのではない。
来るのは、鈴だけだった。
人々の願いだけだった。
会いたいという思いだけが、ここまで届いていた。
「じゃあ」
少女の声が、音のない世界に落ちた。
「お母さんは、どこ?」
誰も答えなかった。
少女はその場に座った。
母の鈴を胸に抱いた。
泣こうとしたが涙は出なかった。
身体が光になってしまったから。
遠い青い星ではその夜、人々が月を見上げていた。
月がいつもより美しく輝いている、と誰かが言った。
本当に美しい夜だった。
銀色の月は、淡く、柔らかく、まるで誰かを慈しむように世界を照らしていた。
それから、この国には新しい昔話が生まれた。
愛する者を想い続けた少女が月へ昇り、死者たちのために灯りをともしたのだ、と。
だから月が明るい夜には、亡くなった人も寂しくないのだ、と。
母親たちはその物語を子供に聞かせた。
子供たちは安心して眠った。
誰も知らなかった。
月の荒野で、少女がたったひとり、銀の鈴を抱えていることを。
死ぬことさえできず。
眠ることさえできず。
もう存在しない母親を、永遠に待っていることを。
それでも少女は、ときどき青い星を見つめる。
そして、誰にも届かない声で言う。
「お母さん」
声は灰色の荒野に吸い込まれ、返事のない静けさだけが残る。
月は今夜も美しい。
あまりにも白く、あまりにも静かで、あまりにも遠い。
少女の孤独を照らしながら、まるでそれを知らないもののように。




