向こう側
まさか――。
反射的に体が動いた。
僕は朋美のもとへ駆け出す。
だが、あと一歩のところで見えない壁に叩きつけられた。
鈍い衝撃が全身を走る。
「こっちに来ないで」
静かな声だった。
「やめろ!」
拳で何度も叩く。
だが、びくともしない。
透明なはずの壁は、まるで世界そのものみたいに重かった。
必死に叫ぶ僕を見て、朋美はほんの少しだけ――
嬉しそうに笑った。
「大丈夫よ。死ぬわけじゃない」
その言葉が、逆に胸を締めつける。
朋美はゆっくりと右手を伸ばした。
人差し指で、小さな輪を描く。
空間が歪む。
その先に、黒い点のような“穴”が生まれた。
最初は指先ほどの大きさだったそれが、脈打つように広がっていく。
空気を巻き込み、音もなく、ただ静かに。
やがて――
人ひとりが通れるほどの大きさになった。
穴の向こうには、緑の世界が広がっていた。
濃淡の違う緑が層のように重なり、形を保ちながら崩れていく。
森のようでもあり、海のようでもあり、
どこか見覚えがあるのに、決して思い出せない。
混沌とした景色だった。
「昇。姉さん」
朋美が振り返る。
その顔は、不思議なほど穏やかだった。
「私はもともと、どこにも居場所のない存在だったの」
言葉は静かに、まっすぐに届く。
「でも、アナタたちと出会えて、私は幸せだった」
一瞬、言葉を探すように視線が揺れる。
「……そんな言葉、必要じゃないかもしれないけれど」
そして、周囲を見渡した。
リタ。ルーラ。クロン。ボルチ。ゾロ。
「他の皆さんも……ただ謝ることしかできないけれど、本当に申し訳なかったわ」
僕は叫んだ。
「朋美! どうするつもりだ!」
朋美は小さく息を吸ってから、答えた。
「私は、この先に進むわ」
その視線は、すでに穴の向こうを見ている。
「適当に、新しい世界へのリンクを作ってみたの」
さらりと言う。
だが、その言葉の重さを、僕は理解していた。
「この先に何があるかわからない。でも――」
一拍、間があく。
「私は、そこにいく」
朋美の表情が変わる。
涙に濡れていたはずの顔が、嘘みたいに晴れていく。
まるで、長い迷いから解放されたみたいに。
一歩。
また一歩。
ゆっくりと、確かに、穴へと近づいていく。
僕の脳裏に、記憶が溢れた。
穏やかな朝。
キッチンに立つ後ろ姿。
焼きたてのパンの匂い。
「いってらっしゃい」
頬に触れる、柔らかなキス。
仕事から帰ると、玄関に灯る明かり。
テーブルに並ぶ、湯気の立つ肉じゃが。
「おかえり」
あたりまえみたいに続いていた日々。
あれが、どれほど特別だったのか。
今になって、ようやくわかる。
――それでも。
その記憶は、「待ってくれ」という言葉にはならなかった。




