父との語らい
思わぬひととの出逢い、そして思わぬ申し出を受けて疲れてしまったルチアは、早々に孤児院を後にしてまっすぐタウンハウスへと帰ってきた。
汗や土埃を流し室内用の簡素なワンピースに着替えて自室のソファに腰をおろしたときには、そろそろティータイムと言ってもおかしくない時間になっていた。
「昼食もまだですし、軽いものでもつままれますか?」
「そうだね……お願いしようかな」
エミリーが気を効かせてくれたので、素直に甘えることにする。
正直に言えば突然のことに頭が混乱して空腹どころではないけれど、食べられるときに食べて戦いに備える暮らしが長かったため、食べ物を腹に詰めようと思えば詰められる。
(お腹が満たされれば考えもまとまるかもしれないし)
支度のために出て行くエミリーの背を見送ってルチアが現実逃避をしていると、不意に部屋の扉がノックされた。
「ルチア、いいかな?」
「父さま。どうぞ」
父の声にすぐ立ち上がり、ルチアは扉を開ける。
入ってきた父は帰ってきて間もないのだろう。ぴしりと正装をして、いつもより貫禄があるように見える。
「お帰りなさいませ。お帰りになっていたのに気づきませんでした」
「ああ、さっき戻ったばかりでね。いやいや、堅苦しい席はいくつになっても苦手なものだ。おかげですっかり肩がこってしまった」
朗らかに笑う父にソファをすすめて、ルチアも向かいに腰掛ける。
父は昔からきっちりした場が苦手だとこぼしていて、できる限り領地にこもっていたいとぼやいていた。
今回の勇者引退が終わればルークに家督を引き渡し隠居するとずいぶん前から言っていたから、最後のひと仕事が終わって安心しているのだろう。
「兄さまとノアはいっしょではないのですね」
「ああ。お前たちは勇者としての在位が長かったからな。久しぶりの代替わりの手続きに時間がかかるらしい。帰りは明日の夕方になるから、今夜は城に泊まるそうだよ」
それでふたりを置いて自分だけ帰って来たのか、と呆れた気持ちで父を見れば、やさしく細められた父の目とぶつかった。
「本当に、長いあいだがんばったな」
子どものように手放しでほめられて、ルチアは素直にうれしかった。
ルチアはがんばってきた。その事実を知ってくれているひとがいる。それがうれしかった。
父と兄とノア、そしてエミリー。病弱な母には負担になるからと勇者業のことは伝えなかったけれど、大切な四人が知ってくれていればそれで十分だった。
何かにつけルチアをほめて労ってくれる彼らがいれば、十分だと思っていたのに。
「……父さま。私に結婚を申し込んでくださった方々がいるのです」
親しい人々のほかにも、ルチアが戦ってきたことを受け入れてくれたひとがいたことで、欲が出た。
「私が剣を振るっていたと知って、戦ってきたことを認めてくださる方々なのです」
ルチアの存在を公然と認めてほしいなどとは思わない。
けれど、父や兄に迷惑をかけないよう領地の屋敷の片隅で息を潜めて残りの人生を送ろうと決めていた未来に、ルチアの心が寄り添えなくなっていた。
もっと、ちがう道を選べるのではないか、と心がささやく。
本来のルチアは、おてんばなのだ。
「うん、聞いているよ」
父はおだやかに受け止めてくれた。
改めて見ると父の顔にはたくさんのしわが刻まれ、身体もひとまわりちいさくなったように思える。
髪の毛はしっかりと生えているけれど、ルチアより濃いブラウンだった髪色はすっかり白くなってしまった。
ずいぶん年をとったのだなあ、と噛み締めて、それだけの年月が経ったのだと実感する。
ルチアもおばさんになるはずだ。
「ルチアの良いようにしなさい。これまでずっとそう言ってやれなくて悪かったね」
大人になるどころかおばさんになってしまったのに、父にとってはルチアは子どものままなのだろう。
切なげに目を細めた父はそっと手を伸ばして、ゆるゆるとルチアの頭を撫でてくれる。かさついて節くれだった指が、くすぐったい。
父の痩せた指も歳を重ねたルチアも昔のままではないけれど、心だけは童心に返ってルチアは素直にうなずいた。
「はい。私は、父さまや兄さまたちにずっと愛してもらって幸せでした。だから、勇者でなくなっても幸せになります」
父をまっすぐに見つめるルチアの顔は、自然にほころんでいた。
驚いたように目を丸くした父はくしゃりと顔を歪めて、すぐに目を細める。
ルチアの頭に乗った父の手に、力がこもる。
「ああ、ああ。幸せになっておくれ。お前たちが幸せでいてくれることが、私たちの幸せなのだからね」
あたたかな笑顔に見守られて、ルチアはこのひとたちの元に生まれて良かったと心から思えた。
そんなやさしい父は、ルチアの頭から手を下ろしてソファに座りなおす。やわらかな重みが離れていくのが、すこしさみしい。
「それじゃあ、ルチアの幸せを探すために私からひとつ提案だ。明日、街を散策してみないかい」
「散策?」
思わぬことばにルチアが問い返せば、父は笑みを深くした。
「ルチアはこの二十五年、戦うかタウンハウスにこもるかしかできなかっただろう。もう半月もすればルークの予定も片付いてみんなで領地に帰ることになるから、今のうちに遊んでおきたいかと思ってね」
街で遊ぶと言われても、経験のないルチアには想像がつかない。けれど、馬車の窓からこっそり見るばかりだった街中を歩くのは、楽しそうな気もする。
未知のものに対する不安とほんの少しの期待を抱きながらも、ルチアは自分の立場を考えてしまう。
「街を散策といっても、お兄さまもノアも明日の夕方まで帰らないのですよね? 仮にも貴族の私がひとり歩きをするのはよろしくないのでは……」
貴族らしくないとはいえ、ルチアは貴族だ。ひとり歩きをするなどという考えはない。
ならば供を連れて行けば良いのだけれど、エミリーは頼りになるとはいえ女性である。いくら王都の治安が良いとはいえ、女の二人連れは外聞が良くない。孤児院に行くのさえ、エミリーに無理を言って身分を隠して向かったのだから。
父を伴うことも考えたが、貴族として顔の知られている父と勇者ルークに良く似た顔の女が連れ立って街へ行くのは、これまで守ってきた秘密を暴露して歩くようなものだ。
いっそルチアひとりで出歩いたほうが、護身の面では安全だろう。けれどルチアが王都のなかで知っているのは、タウンハウスのなかと騎士塔のなかだけ。
広い街に繰り出したところで迷ってしまうだろうし、そもそも楽しみ方もわからない。
そんなルチアの困惑をすべて見通すかのように、父が笑う。
「案内役を頼んであるんだ。ルチアが嫌でなければ、楽しんでおいで」




