異端の嫡子(三)
「犬丸は弱すぎて相手にならぬ」
鼻で笑い、公暁は木刀を下ろした。誰か相手せよ、と言いかけた時、地面に転がった犬丸が、いきなり公暁の脛を不意打ちに打ちすえた。鼻の奥がきな臭くなり、痛みのあまり涙が出た。
「こやつ」
犬丸の顔を蹴り上げた。犬丸も跳ね起きるとむしゃぶりついて来た。少年たちは面白がってわっと騒ぎ立てた。この二人が、太刀の稽古をしているうちに何かの加減で取っ組み合いになるのは常のことなのである。皆はしばらく相撲見物のように声援を送っていたが、じきに飽きた。桶一杯に水を汲んで来ると転がり回っている二人めがけてぶちまけ、引き離した。
「見ろ、血だらけだ」
手や体に犬丸の鼻血がついているのを見下ろして、公暁は文句を言った。飽きた少年たちは既に帰ってしまい、公暁は血を洗うため犬丸と連れ立って近くの沢に行った。体を浸すと、汗まみれの肌にまだ冷たい沢の水が心地よくしぶいた。
「痛むか」
公暁は犬丸の鼻をつまみ上げた。犬丸は首を振った。
「痛まぬ」
「では、もうそのような仏頂面はよせ」
ところで犬丸というのは、本当の名ではない。初めて会った時、名を訊いた公暁に、何が不満であったかぷいと横を向いて聞こえぬふりをしたため
「答えぬならわしが名をくれてやる。お主のように口のきき方を知らぬ奴は犬で充分じゃ。犬丸と呼ぶぞ」
と、公暁が勝手に命名したのである。そして何かあるたびに「犬を呼べ」と、腹いせに使い走りにしていたのだが、そうしているうちにいつの間にか軽口を叩き合う気のおけない間柄になっていた。犬丸にも親からもらった名があり、出家した時の法名もあるのだが、犬丸という呼び名がすっかり定着したため、そちらの名を公暁は親しくなった今でもまだ知らなかった。
沢は少し下流で短い滝になる。体や衣を洗うと、二人は滝口の岩に腰を下ろして、眼下の景色を眺めた。ここは園城寺の裏山にあたり、この滝口に立つと、寺の伽藍や塔のいらかの連なり、そしてその向こうに広がる琵琶湖のありさままで、ひと息に眺めることが出来るのだった。
日ごとまぶしさを増す陽光の下に、琵琶湖のおもては明るく澄んでいる。湖岸を大小の舟がせわしなく行きかうのが見えた。近江は古くから琵琶湖の水運で栄え、隣接する畿内への物資の供給地として、また都と東国を結ぶ交通の要所として、人や物の行き来をになって来た。その水運のにぎやかさは今も衰えていない。そして水辺のにぎやかな眺めは、鎌倉の由比ガ浜のありさまとよく似ていた。初めてこの地を踏んだ時、公暁は鎌倉に似た景色に驚き、生まれ故郷を離れる自分を哀れんだ祖母が、わざわざ故郷と似た景色を持つ寺を選んでくれたのだろうかと無邪気な想像をめぐらせたものだった。
眺めるうちにまた一艘、小舟が岸を離れ走り出した。櫂の下で陽光が砕かれ、小魚のように金色に踊った。向こう岸にのぞく稜線は萌黄に霞んでいる。翳りというもののない景色であった。
「五百年の昔も、このような眺めがあったのだろうな」
公暁がつぶやいた。
「こんな穏やかな地で、かつて皇家が血を流し合ったのだ。信じられるか、犬丸」
「そのいくさの話は聞き飽きました」
犬丸がくすりと笑った。
「聞き飽きるほど幾度もは話しておらぬぞ」
「ついでに申せば、若が大津宮を捜して粟津へ参った話も聞き飽きました。――遥か昔に終わったいくさよりも、若は鎌倉でこれから起こるいくさを案じた方がよいのではありませぬか」
「分かったよ。もう、せぬわ」
公暁は苦笑いした。
* * * * *
園城寺という寺の縁起は古く、寺伝によれば天智天皇が大津に都を置いていた、近江朝の御世にまでさかのぼるという。天智天皇は生前、この地に自らの所持する弥勒菩薩を本尊とした寺を建立することを望んでいたが、果たせぬまま病で没した。
近江朝は嫡男の大友皇子に引き継がれたが、そのわずか半年後、叔父の大海人皇子(天武天皇)が反乱の兵を挙げた。世にいう壬申の乱である。大友皇子はこの大津の地で覇を争ったものの敗れ、山前(京都府乙訓郡大山崎町)まで逃れたのち、自ら縊死して果てた。
ようやく寺が建立されたのは、朱鳥元年(六八六)、大友皇子の息子、与多王の手によってであった。「園城寺」の寺号はその際に、時の帝、天武天皇により与えられたものであるとも伝えられる。
東国土着の武士の多くがそうであるように、公暁もまた、京に住まう皇家、公家の人々に対しては、豪奢な暮らしぶりへの強い憧れと共に、文弱への侮蔑の念をも抱いていた。そんな公暁であったから、壬申の乱の話を聞いた時の驚きは大きかった。皇家の者が二手に分かれ、剣を取って血塗れの殺し合いを演じたこと、皇位にあった者が都を追われ、ひとり命を絶ったこと、全てが刃のような衝撃となって心を刺した。
「その、灰燼に帰した近江大津宮とは何処にございますか」
公暁は勢い込んで尋ねた。
「粟津と伝えられておる。琵琶湖の湖岸に沿うて南に一里半ほど行くであろうか。湖の、南の端にあたる地がそれであるわ」
公胤は打てば響くように答えた。寺の建立にまつわる歴史と共に、壬申の乱の顛末を語ってくれたのは、この眉の白くなった老師であった。
「今も城など残っておるのでしょうか」
「いや、柿本人麻呂が持統の帝に供してかの地に赴いた時ですら、既に寂しい草地に成り果てておった。今はそれこそ何も残るまい」
「いつのことでございましょう。その武将が粟津を平らげたのは」
「人麻呂は武人ではないぞ。歌詠みじゃ」
公胤は少々あきれながら、公暁の誤りを正した。
「持統帝は天智帝の皇女におわす。亡き父帝の供養に大津へ御行した際、人麻呂も供奉し、求められて歌を献じたのじゃ。
――公暁、そなたは近頃悪僧ども相手に太刀など振るっておるそうじゃが、そなたはもっと学ばねばならぬ。学ぶとは書物を繰ったり勤行するばかりではない。人の心や、そして世の中のことも広く知らねばならぬ。成程人麻呂を武人と思うても生きる上で困りはせぬ。だが、塵芥が積もって黒土となるが如く、さまつな小事が人の智をはぐくむ糧となることもあるのだ」
師の言葉に頷きながら、しかし公暁の心はまるで違う考えに囚われていた。翌朝、まだ薄暗いうちに公暁は床から起き上がった。鎌倉を発つ際に政子から拝領した太刀を取り出すと、それを佩いて房を抜け出した。そして一人粟津へ、失われた大津宮を求めて向かった。悲劇の皇子が投げかけた陰影は、それほどに少年の公暁の胸に鮮烈だったのである。
寺の裏山にある房を出て船着き場までまっすぐに抜け、あとは湖岸に沿って歩き出した。このまま水辺をなぞってひたすら東へ歩けば、湖岸線が自然と粟津の地へと導いてくれるだろうと公暁は単純な見通しを立てたのだが、その道行きはなかなか素直には進まなかった。船の行きかいが見えているうちはよかったが、じきにやぶが深くなって道が失われ、大小の叢林などが立ちふさがった。木々に阻まれては迂回し、通る人を見つけては道を尋ねながらひたすら歩き続けた。そうして、そろそろ陽が傾こうという頃、公暁はようやく粟津に至った。
――ここにまことに大津宮があったのか。
しかし辺りを見回して、公暁は首をかしげた。
公胤が語ったところによれば、大津宮は、唐との戦いに敗れたのち、唐の侵攻に備えて造営された要害の都であったという。確かにこの粟津の地はその伝承と合っているようには思われた。琵琶湖畔に広がった平坦地であり、水運にも恵まれている。背後には音羽山や千頭山が隆起し守りを固めている。しかしいくら見渡しても、目に映るのは、赤く枯れ始めた穂を一面に揺らす、秋草の原ばかりであった。時折、草の波にもまれながら細い潅木が、足元に弱々しい影を垂らしていた。
それでもと思い、都の遺構を求めて歩き回るうち、沼に出た。さほど大きくもないみなもは、黄ばんだ葦に囲まれてとろりと静まっていた。漁夫の姿も水鳥の姿もなく、虚ろな沈黙が沈んでいた。暗い夢を見ているようだった。
老師はこうも語った。大津宮はあたかも長安のような都であったと。天智天皇は若い頃から唐への憧憬が深く、また戦いに敗れて国を追われた百済の貴族が多く渡来したこともあいまって、都には大陸からもたらされた文化が咲き誇った。色鮮やかな衣をまとった人々が行きかい、宮廷では唐様の歌舞を始め、音楽、漢詩、長歌や短歌も盛んに行われ、着飾った歌人たちは連夜、その才を競ったという。
それほどに華やかに栄えた都が、五百年という年月が流れたとはいえ、このように跡形もなく草の中に消え失せるとは。
――敗者の都であるからだ。
沈痛な思いを呑んで、公暁は胸につぶやいた。壬申の乱に敗れた大友皇子は、力を奪われ、都を奪われ、そして命を奪われた。だが、それだけではない。天は皇子がこの世に生きたその痕跡、その証すらも、こうして跡形もなく消し去った。敗者になるとはそういうことではないか。
この時、公暁の中に父への思いがなかったといえば嘘になろう。父帝の後継となりながら、都を追われ自ら命を絶たねばならなかった皇子の運命は、そのまま、二代将軍となりながら鎌倉を追われたあげく暗殺された、父の末路であった。
顔すら知らぬ皇子へのしめつけられるような哀悼の思いと、幼い頃その腕にいだかれた父への石のように冷たい侮蔑の思いとが、胸の中に激しく入り乱れた。何かの激情が咽元に突き上げた。
「――大友皇子」
父を呼ぶ代わりに、公暁は皇子の名を叫んだ。腰の太刀を抜き放ち、かたわらの葦を力まかせに薙いだ。鮮やかな切り口を光らせて穂先が乱れ飛んだ。叫びはいっとき辺りを騒がせ、そして暗いみなもに吸い込まれた。風が鳴り、死者を呼ぶ声に物悲しく応えた。