異端の嫡子(一)
午後に降り出した雪は日が落ちてもやむそぶりを見せず、鎌倉の地を白浄の一色に埋めた。正月の二十七日(二月十三日)である。未だ寒さの厳しい季節とはいえ、これほどの雪が降るのは珍しいことであった。
――雪とは、明るいものだな。
板戸を引き開けて表に出た公暁は、つぶやいた。
山は、雪に覆い尽くされていた。土も石も、地面のくぼみや丈の低い潅木なども皆雪の下に呑まれ、よくなじんだはずの光景は見る影もなかった。色も音もない、ただ延々と白い陰影が続くだけの無の世界の中で、僧房を囲む叢林の幹ばかりが雪にあらがって、墨汁を流し落としたように黒かった。
公暁は、天をふりあおいだ。僧房の建てものから張り出したひさしと木々の梢に食われながら、空がのぞいている。雪を含んだ雲が厚く垂れ込め、空は灰白色であった。
風が起こった。山の木々という木々が身をよじり、重苦しいざわめきを発した。山は風をはらみながら次々と叫びかわし、公暁を呑んだ。山のはらわたの底へ呑み込まれたようだと、風音が耳を舐めては駆け過ぎるのに任せながら公暁は思った。雪片が吹き上げられ、まくなぎの群れのように舞い乱れた。
鶴岡八幡宮の裏手に広がる、御谷の山中であった。源氏の守護宮、鶴岡八幡宮は政と神事の中心であり、その周囲には屋敷が多い。南側の扇ガ谷から雪の下と呼ばれる一帯には、将軍の御所、重臣らの館が囲み、そして宮の背面を護って隆起する御谷には、二十五坊と称される、八幡宮の社役を務める供僧らの住房をはじめ大小の僧房、庵が密集している。別当、つまり供僧の長である公暁の屋敷もこの山中にあった。
公暁は足元から雪をすくい上げた。手の中で軽く握り固め、勢いをつけて梢めがけて雪つぶてをほうった。粉雪が舞い、梢に積もっていた雪が崩れ落ちた。落雪を受けて真下の枝が驚いたように揺れ、積もった雪をまたふるい落とした。枝から枝へ騒ぎを起こしながら雪は落下し、ひと時の小気味良い嬌声を上げながら地面になだれ落ちた。
眺めていた公暁の口元に笑みが浮かんだ。その笑みは、低い、しかし楽しそうな笑い声に取って代わられた。始めの笑みは、雪つぶてをほうって雪落としなどをする己の子供っぽさを笑ったのだった。そして咽の奥から洩れた笑いは、このような緊迫した夜であるにもかかわらず、雪をほうったり笑みを浮かべたりする遊び心を見せた自分自身への、満足の笑いだった。
雪はやむこともなく降り落ちる。僧兵がまとう白い五条袈裟をすっぽりと被った額に、雪が羽虫のようにしきりにあたった。細かな雪くずは僧衣の上につけた胴丸や、両手にしっかりと巻かれた籠手にもあたり、銀の箔が震えるようなかすかな音を立てた。杖のように肘の下に突いた太刀の、柄頭の飾り金が、衣を透してしんしんと凍っている。
――明るいものだな、雪夜とは。
再び、心のうちにつぶやいた。空には月も、星も出ていない。であるというのに、辺りは夜目にもはっきり見えるほどに、不思議に明るい。白い雪面からほのかな明るさがにじみ出て、夜を照らしているのである。だが公暁は、雪の灯す明かりを無邪気に不思議がっているのではなかった。今宵、鶴岡八幡宮の境内がどのようなありさまになっているのか、ありていにいえばどれくらいの篝火が焚かれているのか、公暁は知らない。だがたとえ火が乏しくとも、この雪明りが導いてくれるならば将軍を討ち損じることはあるまいと、そのようなことをしきりと考えているのだった。
「――若」
背後に戸がきしり、声がした。備中阿闍梨だった。公暁の後見人であり、この僧房の主でもある。
「お入り下され。あまり体を冷やしては毒になりましょう」
公暁は頷いたが、その目はまだ雪の満ちる天をあおいでいた。
「御坊、拝賀の儀とはかほどに時がかかるものか」
雪をあおいだまま、公暁は訊いた。
「拝賀よりも大饗の儀に時が費やされておるのでございましょう。とりわけ今年は、鎌倉殿が右大臣にのぼられた祝いの席でもござりますれば。――しかし、頃おいを見て人が参る手はずになっておるのではございませんでしたか」
「義村が」
と、公暁は乳母夫の名を答えた。
「三浦の館から手の者が知らせてくれるはずだ。――のう、御坊よ。正月にこのような雪はまれであると聞いたが」
「さようでございますな。降るには降りまするが、一刻あまりでかほどに降り積もるのは、この季節には確かに珍しゅうございます」
「そうか」
公暁はまるで知らぬ土地の話を聞いているかのように頷いた。十二の年に近江の園城寺にあずけられるまで、公暁はこの鎌倉で暮らしていた。だが、いつ頃雪が降り、いつ頃川の水がぬるみ始めたか、そうした季節の機微は思い出されて来ない。子供が時を見つめる目は常に刹那的である。五月雨の冷たさも小春日和の暖かさも、皆一瞬のひらめきとなって目の前を駆け去ってしまう。子供であった公暁の心に鎌倉の季節の移ろいがとどまらなかったのは、無理もなかった。そして一昨年近江から戻ったばかりの公暁には、鎌倉は生まれ故郷でありながら、しかし未だに未知の土地だった。
公暁の目はまだ憑かれたように雪を見上げている。横顔を、阿闍梨はそっとうかがった。老僧は、公暁の父が十八で将軍職を継ぎ、斃れたことを覚えていた。そののち、現将軍の実朝が十二の少年で将軍の座に据えられたことを覚えていた。そして今、あずまの武士は再び、このはたちの若者を擁し、将軍実朝を討たせるという。
仏門に入って久しいはずの公暁が、太刀を取り、手を血に染めようとしている。そのありさまに、阿闍梨は割り切れなさを覚えずにはいられなかった。しかし源氏は貴種である。人々の上に立つのがさだめであった。そして源氏は勇猛な武人の一族であった。その源氏嫡流の血を、公暁は体に持っているのである。全ては血の宿命であるのかもしれなかった。穏やかな雪の乱舞に対比して、見上げる公暁の目は火が滲み上がったように鋭い。それは既に僧侶の顔ではなかった。
* * * * *
公暁は源頼家と正室の辻殿との間に、正治二年(一二〇〇)、生を受けた。
頼家の父は、源頼朝。伊豆の蛭ヶ小島から兵を挙げ、ついには平家一門を壇ノ浦の水底に屠った、あの希代の英傑である。頼家は頼朝にとって初めて授かった男子であり、待望の後継者として周囲の祝福を一身に受けての誕生であった。そして建久十年(一一九九)一月に頼朝が病で没すると、頼家は幕府の第二代将軍の座に就いたのである。
公暁には父の記憶はさほど豊かとはいえない。幼い頃の父の思い出といえば、屋敷の欄間にほどこされた透かしの飾り彫りくらいしか、公暁には思い起こされて来なかった。父が訪ねて来る。幼い公暁を抱き上げる。頼家は丈高い男であった。その父に少々手荒なしぐさで抱き上げられると、まるで宙高く放り投げられたような浮遊感があった。そうして、父の腕に抱かれて見上げると、ちょうど目に入って来るのが、欄間の飾り彫りなのだった。普段は頭上の遥か高くに収まって文様すらよく見えない細工が、もう少しで手が届くばかりに近くなるのもそれだけで面白く、そして精緻に彫り込まれた雲や身をくねらせて雲を巻き上げる竜の姿は、じっと目で追っているといつまでも飽きなかった。
のちになって思えば、公暁の記憶の薄さはそのまま、父の愛情の薄さであったかもしれない。妻妾の中で頼家が最も情を向けていたのは側室の若狭局であった。若狭局は比企能員の娘で、頼家の乳母となった河越局や比企尼の三女には従姪にあたる。そして若狭局への情愛に加え、幼年の頃からつながりの深かった比企一族への信頼ゆえか、頼家は正室の子である公暁ではなく、若狭局が生んだ長子の一幡を嫡子と定めていた。辻殿にはそれが不満であった。父が訪れるたび、両親の間には決まって、何故側室の子を後継にするのかといういさかいが、長く続いた。
その父が没したのは元久元年(一二〇四)、公暁が五才の年であった。
二代将軍に就いたものの、頼家の下に御家人の統制は円滑には進まなかった。一つには頼家が若年だったせいもある。幕府を開き関東武士団の棟梁となった時、頼朝は既に三十八の壮年を迎えていたのに対し、将軍になった時の頼家は十八の若者に過ぎなかった。しかしそれ以上に、愛情、好悪、喜怒哀楽、万事において感情の激しい頼家には、先代から受け継いだものを寡黙に墨守することは、そもそも息苦し過ぎた。噛み合わぬ利害を根気よくあやし、折り合いのつかぬはずのものに折り合いをつける、そうした政の苦さ、退屈さとつき合うすべを教わらぬままに父が病没したのも、この若い将軍の不幸だった。
重臣らと衝突を繰り返す頼家に対し、ついに生母である北条政子は将軍の資質なしと断じた。彼は政の中枢から追われ、執権北条時政(政子の父)を筆頭とした十三名の重臣による合議に、執政の実権は移ったのだったが、事はそれで終わらなかった。頼家と重臣の対立は、幕府の二つの勢力の対立を露わにしたのである。北条氏と比企氏との対立であった。
比企氏は頼朝との非常に古い縁を持ち、比企掃部允の妻、比企尼が頼朝の乳母をつとめたのが縁の始まりである。この二人は頼朝の伊豆配流が決まると、武蔵国比企郡の郡司となって下向し、領地から頼朝のもとに二十年もの間、米を送り続けた。
頼朝が鎌倉殿となった後も縁は切れることはなかった。嫡男頼家の乳母となった河越尼、比企尼の三女は共に比企尼の娘であるし、尼の孫娘たちは頼朝の異母弟の範頼、義経に嫁いでいる。また政子が頼家を身ごもった時産所に選ばれたのも、比企能員の屋敷であった。この比企能員は比企尼の甥である。そうして、能員の娘、若狭局が頼家の側室となり一幡を産んだことは、既に述べた。