第7話:聖域の盾、微睡みの記憶
「……お、おはよう。穂積くん」
背後から、緊張を含んだ声が聞こえた。
振り返ると、梨亜がこちらを見上げていた。
伏せがちな瞳。わずかに赤らんだ頬。言葉を選ぶように揺れる唇。
その仕草は、どこか小動物を思わせた。
――またか。
俺は内心で眉をひそめる。
この女は、なぜこうも俺に構うのだろう。
偶然を装って近づき、こちらの反応をうかがっているようにも見える。あの目も、あの表情も、計算ずくなのではないか。
そう考えると、素直に受け取る気にはなれなかった。
「ああ」
短く返し、そのまま歩き出す。
「ちょっと、穂積!」
隣にいた紗奈が、呆れた声を上げた。
「挨拶くらい、ちゃんと返しなさいよ」
「返しただろ」
「そういうことじゃなくて!」
紗奈の小言を聞き流しながら、俺は足を止めずに答えた。
「……はよ」
誰に向けたともつかない声を残し、教室へ向かう。
背後から、紗奈のため息が聞こえた。
◆
「紗奈ちゃん……私、穂積くんに嫌われちゃったかな」
梨亜が、心細そうに尋ねてきた。
潤んだ瞳で見上げられ、アタシは思わず胸を押さえた。
いや、待って。
何、この子。かわいすぎない?
こんな顔で聞かれたら、そりゃ放っておけないでしょ。
「んー……まあ、穂積だし?」
「穂積くんだから?」
「そうそう。あいつ、朝から機嫌悪いこと多いし。たぶん胃痛とかじゃない?」
「胃痛……?」
「うん。あの性格だもん。きっと色々抱えてんのよ」
適当に言ってみたけれど、梨亜は少しだけ表情を和らげた。
「そっか……。ありがとう、紗奈ちゃん」
「いいって、いいって!」
「紗奈ちゃんは優しいね」
そう言って微笑んだ梨亜の顔に、一瞬、大人びた影が差した。
いつもの、守ってあげたくなるような表情とは違う。
もっと遠くを見ているような、アタシの知らない顔。
けれど、それはほんの一瞬のことだった。
次の瞬間には、いつもの梨亜に戻っていた。
……気のせいかな。
春は眠いし、花粉も飛んでいる。
ぼんやりした頭で考えても、仕方がない。
そう結論づけたアタシは、ふと、あの日のことを思い出した。
◆
昼休み。
女子トイレの洗面台で手を洗っていたアタシは、背後から聞こえてきた声に、思わず手を止めた。
「ねえ、紗奈ってさ、ちょっと調子乗ってない?」
「分かる。葛城くんや穂積くんと仲いいからって、いい気になってるよね」
「男に囲まれて、いい気なもんだよね」
聞き覚えのある声だった。
振り返らなくても、誰が話しているのか分かった。
別に、初めて言われたことじゃない。
修吾や穂積と一緒にいるだけで、勝手なことを言われるのは慣れていた。
だから、聞かなかったことにして立ち去ろうとした。
その時だった。
「……佐久間さんって、そういう子じゃないと思うけど」
柔らかな声が、割って入った。
梨亜だった。
「は?」
「だって、佐久間さんって明るくて、誰にでも気さくに話しかけるでしょう? 自分をよく見せようとしてる感じもしないし。私は、そういうところが好きだな」
穏やかな口調だった。
相手を責めるわけでも、声を荒らげるわけでもない。
ただ、自分がそう思っていると、静かに伝えていた。
「……別に、あんたに聞いてないんだけど」
「うん。そうだね」
梨亜は、それ以上言い返さなかった。
それでも、引き下がるつもりもないようだった。
短い沈黙のあと、女子たちは気まずそうに顔を見合わせ、トイレを出ていった。
残された洗面台の前で、アタシはしばらく動けなかった。
「……梨亜」
声をかけると、彼女は何事もなかったように振り返った。
「あ、佐久間さん。いたんだね」
「いたんだね、じゃないでしょ。ありがと」
「え?」
「さっきの。かばってくれたじゃん」
梨亜は少し困ったように笑った。
「そんな、大したことじゃないよ」
大したことじゃない。
彼女にとっては、本当にそうだったのかもしれない。
けれど、アタシにとっては違った。
誰かの顔色をうかがって、言いたいことを飲み込むのは簡単だ。
波風を立てずに、その場をやり過ごすことだってできる。
それでも梨亜は、自分の考えを口にした。
アタシがその場にいると知らなかったとしても。
いや、知っていたとしても。
あの時の梨亜が何を考えていたのか、今でも分からない。
ただ、あの日からだった。
アタシが梨亜を、守るべき存在だと思うようになったのは。
穂積が彼女をどう思っていようと、関係ない。
梨亜が困っているなら、力になりたい。
彼女が傷つくようなことがあるなら、今度はアタシが盾になろう。
そう、決めたのだ。
春。
眠気を誘う暖かな陽光の下で、アタシの決意は固まっていった。
守るつもりが、何かを見落としている。
そんなことを考えもしなかった。
あの時のアタシには。
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