第1話:桜の下で、嘘が芽吹く
初めて会ったはずの女の目が、俺がかつて捨てたものの形をしていた。
そう気づいたのは、桜の嵐の中だった。
――遡ること、数十分前。
◆
「――え、梨亜ってばマジ!?」
佐久間紗奈の甲高い声が、昼下がりの教室の空気を裂いた。
東堂梨亜は慌てて人差し指を口元に当てる。
「シーッ!! もう~紗奈ちゃん、声大きいよぅ……」
顔を真っ赤にして、隣の席の紗奈にすがるように身を縮める。
その姿は、いかにも可憐な「庇護欲をそそる転校生」そのものだった。
「あ、ゴメッ! いや、てかアンタが穂積いいとか、意外すぎてさー!」
紗奈は全く反省の色なく、机に身を乗り出す。
「いや、まぁ分かるよ? 面だけは国宝級じゃん、アイツ。でもさー、性格がなぁ~……都市伝説レベルでクソって聞くけど? ホントにマジのマジ?」
梨亜は少し視線を彷徨わせてから、小さく、でも芯のある声で言った。
「……穂積君、優しいとこあるよ? 私、転校生だったから……。以前、教室が分からなくて困ってたら、教えてくれたことがあるの」
その言葉に、紗奈は心底呆れたように天を仰いだ。
「ッはぁ~! 出たよ、少女漫画的ビギナーズラック! 人は見かけによらないってやつ? ……いや、でもね梨亜、騙されちゃダメ。アイツの本性は絶対――」
「……私、別に。付き合いたいとか、そういうんじゃないんだよ」
梨亜の声が、すっと温度を落とした。
紗奈が言葉を詰まらせる。
梨亜は窓の外、風に舞う桜に目を細め、独り言のように呟いた。
「ただ、傍にいられるだけでいいの」
「――梨亜! もぅ! 健気!! あんたって子は!」
紗奈がたまらず梨亜を抱きしめる。
その腕の中で、梨亜の唇が三日月型に歪んだ。
「……フフ。そう、傍にね」
穂積伊織。
その名を思い浮かべる梨亜の笑みは、先ほどまでの可憐な表情とは、どこか違っていた。
◆
――放課後。渡り廊下。
「ほ、穂積君っ!! あなたが好きです! 付き合ってください!」
これで、今月三人目。
正直ダルい。
俺は、感情の乗らない定型文を出力する。
「碌に知らない相手と付き合いたいと思えるような、お人好しに見える?」
足を止めず、そのまま踵を返した。
背後で、心臓が凍りつくような音がした気がする。
見ていないが、絶望が顔を覆っていることだろう。呼び出された場所まで赴き、直接「お断り」の意を伝える。これ以上誠実な対応が、この世にあるだろうか。どうして顔だけ見て「運命の人」だと断定できるのか。
その単純な神経回路がどんな構造をしているのか、一度でいいから解剖してみたい。
――いや、全く興味ないけれども。
ミッション完遂の軽い満足感と共に、俺は教室へ戻ろうと中庭へ踏み出した。
その時だった。
「…………ッ、オイ」
思わず、舌打ちと共に声が出ていた。
そこに、見慣れないクラスメートがいた。
確か、噂の転校生――東堂梨亜。
見れば、ゴミ袋を四袋も無理やり引きずり、そのうちの一袋が完全に破けていた。
なんだってそんなことに……。
ヘンゼルとグレーテルみたいに、自分がどこから来たか、その軌跡を無様に物語っている。
俺は普段、他人に全く関心を持たない。
だが、同時に、病的と言っていいほど潔癖なところがある。目の前の「秩序の崩壊」を無視することは、俺の精神衛生上、許されなかった。
「そこのあんた、ゴミ集めてんのか撒いてんのかどっちかにしろ」
彼女が、ハッとしたように振り返る。
――途端、突風が吹いた。
中庭の老木の桜が一斉に狂い咲き、視界がピンク色の嵐に包まれる。
「えっ?」
目が合った。
舞い散る花びらの隙間から、振り返った彼女の瞳が俺を捉える。
――何故だ。
知っている。
いや、知らない奴だ。絶対に。
だけど、俺の脳の、論理回路が届かないもっと深い場所が、警報を鳴らしている。
初めて会ったはずの女。
なのに、その瞳は。
俺がかつて捨てた、何かの鏡だった。




