第十八話《未知血統》
それでも、相手の手は停止した機体をすぐには潰さない。
装甲。
固定具。
循環管。
搭乗槽。
壊しているのではない。
中へ届く順番で、開いている。
搭乗槽の中で、私の呼吸だけが動いている。
額から落ちた血が、傾いた操作盤を伝った。
右肩の傷から流れる血が、切れた固定帯へ染み込んだ。
白夜の側から返ってくるものは何もない。
外板が引き上げられる。
開いた隙間から、深淵の暗さが見えた。
手は止まらない。
装甲の縁がさらに曲がる。
指先から落ちた一滴が、傾いた外板の裏を滑った。
黒い血が搭乗槽の隙間へ向かう。
《血液支配》
落ちる一滴へ命令を伸ばす。
反応はない。
位置は見える。
内部にある流れも感じ取れる。
けれど、動かすための接点がない。
竜血を奪われた時と同じだった。
直接は触れられない。
周囲を見る。
破れた生体循環管から、銀色の液体が流れ続けている。
その中には、同期のために使われた私の古い血が残っている。
黒い一滴ではなく、周囲を動かす。
「こっちは、私の血」
銀色の流れへ混じった赤い成分を糸にする。
一本では弱い。
細い糸を何本も重ね、液体の表面に薄い膜を作った。
黒い血の下へ滑り込ませる。
触れた部分の膜が沈んだ。
命令は届かないまま。
それでも、周囲の液体ごとなら運べる。
銀色の膜を椀のように曲げ、一滴をすくい上げた。
手が外板を引いた。
最後の固定部が裂ける。
胸部装甲が剥がされ、外へ投げられた。
黒い一滴と銀色の膜が空中へ浮く。
血糸を引く。
膜が閉じた。
濁った銀色が一滴を包み、開いた搭乗槽へ飛び込んでくる。
同時に、もう片方の手も入ってきた。
座席の背を掴む。
金属が潰れた。
私は残った固定帯を外し、座席を蹴って前へ抜ける。
壊れた操作盤の裏へ身体を滑り込ませた。
手が座席を引き抜く。
二本目が内壁を擦った。
床板が裂ける。
足を上げ、開いた亀裂を避ける。
銀色の膜が操作盤の上へ落ちた。
弾む。
床へ転がる前に、自分の血を伸ばした。
赤い糸で周囲の銀色だけを囲み、手元へ引く。
掌に、濁った小さな球が収まった。
中心には黒い血がある。
外では、座席を捨てた手が搭乗槽の縁を掴んでいる。
白夜は動かない。
命令を聞く竜血もない。
逃げるための脚も、閉じる装甲もない。
これが何の血なのか分からない。
私の能力で扱える保証もない。
けれど、あの指へ傷をつけた時、流れたのは確かに血だった。
血であるなら、私が使える可能性は残る。
銀色の膜を薄くする。
黒い一滴が掌へ触れた。
熱くない。
冷たくもない。
皮膚へついているのに、温度だけが存在しなかった。
「これは、もらう」
手が搭乗槽の縁を折った。
開口部が広がる。
私は一滴を口へ入れた。
味はない。
血の鉄臭さも、深淵天竜の血にあった熱もない。
舌の上にある位置だけが分かる。
飲み込もうとした。
喉が閉じた。
身体が拒んでいる。
吐き出そうと舌が動く。
黒い血が唇へ戻りかけた。
「呑み込んで」
自分の喉へ命令する。
閉じた筋肉を開き、舌を奥へ押す。
一滴が落ちた。
喉を通る感触もない。
胸の奥へ入った瞬間、暗視の輪郭が二重にずれた。
搭乗槽へ入ってくる手が、近いのか遠いのか分からなくなる。
自分の血流の中へ、知らない流れが重なった。
《血統捕食》
黒い一滴が胸の中心へ向かう。
搭乗槽の外で、黒いものの胸を巡る循環が一度だけ強く脈打った。
長い指の動きが止まる。
白夜の装甲でも、開いた搭乗槽の縁でもない。
瞳が、壊れた内壁の奥にいる私の位置へ正確に合った。
それまで追われていた時とは違う。
探している動きが消えている。
食道を通っているのではない。
血管にも入っていない。
それでも、《血液感知》には位置が見えた。
喉から胸へ。
胸骨の裏を下り、心臓へ近づいてくる。
自分の血が逃げた。
黒い血の進路を避けるように、胸部の循環が左右へ割れる。
「止まって」
命令は届かない。
一滴が心臓へ触れた。
外の黒い循環と、胸の中の一滴が同じ間隔で脈打った。
理由を探す前に、鼓動が止まった。
一拍だけではない。
次に縮むための動きそのものが消えた。
視界が狭くなる。
音が遠ざかる。
遅れて、心臓が逆向きに痙攣した。
押し出されるはずの血が胸へ戻る。
喉の奥まで圧力が上がった。
身体が折れる。
壊れた操作盤へ手をついた瞬間、口から血が噴き出した。
赤い。
吐き出されたのは、私の血だけだった。
呑み込んだ一滴は、胸の中に残っている。
心臓がもう一度動いた。
速い。
縮む順番も、血を送る方向も崩れていた。
右腕の感覚が消える。
次に、左足の指が動かなくなる。
胸から首へ、細い線が皮膚の下を上がってきた。
黒い。
血管に沿っているように見えて、途中から別の経路を作っている。
鎖骨を越える。
喉の横から頬へ伸びる。
《未知血統を検出》
《深血適合――抑制を開始》
自分の血が胸へ集まり、侵入した構造を包もうとする。
触れた場所から、赤い血まで黒く変わった。
《適合限界を超過》
《人間性上限が低下します》
《現在人間性が低下します》
怖くない。
長い指が搭乗槽の内壁を引き裂いている。
次に身体を掴まれる距離だと分かっても、喉は縮まらなかった。
右から二本。
床の裂け目を避ければ、壊れた座席の下へ身体を入れられる。
掴まれるまでに、血糸を三本作れる。
判断だけが鮮明になる。
白夜から応答が消えた時の痛みも遠い。
担架から手を離さなかった父親の顔を思い出す。
その隣で、娘の担架を持ち上げた兵士の顔。
輪郭が重なる。
どちらがどちらだったのか分からない。
それをおかしいと感じる部分まで薄れていた。
《血統制御を喪失》
黒い線が頬骨を越えた。
右目へ向かっている。
私は爪を腿へ立てた。
布を貫き、皮膚へ食い込ませる。
痛みがある。
「まだ、痛い」
声に出す。
痛いと判断できるうちに、胸の中へ意識を沈める。
《血統捕食》
自分のものではない血統が、胸の中で枝を広げていた。
一本の血管を進んでいるのではない。
触れた血と神経を使い、身体の中へ別の循環路を作ろうとしている。
《深血適合》は、それを異物として包もうとしている。
包んだ自分の血から、逆に侵食されていた。
抑えるだけでは止まらない。
排出もできない。
なら、自分の血へ取り込む。
命令の届く範囲へ入れる。
《血統支配》
胸の中心にある一滴へ触れる。
全身の黒い線が強く脈打った。
線の先が右目の下まで伸びる。
「止まって」
頬の下で黒い流れが震えた。
一度、目尻へ進む。
そこで止まった。
消えない。
胸の内側から押し広げられる感覚も残っている。
右腕の感覚は戻らない。
左足の指も動かない。
完全には支配できていない。
それでも、自分へ取り込んだ範囲だけは止められた。
右目へ入る直前。
黒い線は、皮膚の下で脈打ったまま動かなくなった。




