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最終話「春風と前髪」

 長く厳しかった冬が、ようやく終わりを告げようとしていた。

 屋根に残っていた雪が溶け、ポタポタと春の訪れを告げる音を立てている。


「……どうやら、口出まかせではなかったようだな」


 分厚い帳簿から顔を上げた貴族は、鋭い視線をウシオからサラへと移した。

 予告通りに行われた冬明け一度目の厳格な監査。

 だが、その結果は彼らの予想を上回るほど堅実なものだった。


「近隣からの苦情もない。里親制度も機能しているようだし、何より……」


 貴族は窓の外を見た。

 中庭では、街の工房へ見習いに出ていた孤児たちが、春の休みに合わせて里帰りのように神殿を訪れ、残っていた子供たちと元気に駆け回っている。


 誰も飢えていない。

 誰も凍えていない。


 痛みを伴う選択を乗り越え、彼らは自らの足でこの厳しい冬を見事に生き抜いたのだ。


「次の監査は半年後だ。……せいぜい、気を抜かぬことだな」


 貴族は帳簿を突き返すと、ほんの僅かに、統治者としての安堵の笑みを浮かべて神殿を後にした。


「……終わりましたね」

「うむ。おぬしのおかげだ、ウシオ」

「いえ、皆が踏ん張ったからです。さ、街から帰ってきた子たちの相手をしてあげてください。俺は夕食費の計算をしておきますから」

「ああ。買い出しの備忘録は、あとで机に置いておく」

「分かりました」


 以前のように「我がすべて背負う」と意気込む柱はもういない。

 サラが自然な呼吸で実務を任せ、ウシオがそれを完璧に支える。

 二人の間には、冬を越える間に培われた、見えないけれど強固な相棒としての信頼が完成していた。




 子供たちの騒ぎ声も静まり、神殿に穏やかな夕暮れが訪れた頃。

 縁側に腰を下ろしたサラの隣に、温かいお茶の入った木杯を持ったウシオが静かに座った。


「ふう……。さすがに今日は、少し疲れましたね」


 ウシオは木杯に息を吹きかけながら、ぽつりとこぼす。

 冬を越した安堵からか、彼の纏う空気はいつになく無防備だった。


「そうさな。ようやく人心地ついたわ」


 サラも香りを楽しむように、木杯をそっと鼻に近づける。


 その時、春の温かい南風が縁側をふわりと吹き抜けた。


「わっ……」


 風が、ウシオの少し猫背な銀髪を大きく煽る。


 いつもは目元を隠している長い前髪が風に流され、彼の素顔が、夕陽の光の中にくっきりと露わになった。


「……」


 隣でお茶を飲もうとしていたサラは、思わず木杯を口元で止めた。

 初めてはっきりと見る、前髪に隠されていた彼の素顔。


 長い睫毛に縁取られた、穏やかで澄んだ瞳。少し不器用そうに下がる眉尻。

 それは、いつも帳簿と向き合っている時には気づかなかった穏やかな顔立ちで――


 サラの頭上の獣耳が、無意識にピクリと跳ねた。


「……おぬし」

「はい? どうしました、サラ様」


 風が収まり、再び前髪が目元を隠す。

 ウシオは不思議そうに首を傾げた。


「……いや。こうして見ると、中々愛嬌のある顔をしておるのう」


 サラは木杯を持ったまま、まじまじと彼の顔を見つめて言った。


「は!?」


 突然の言葉に、ウシオはむせてお茶を吹き出しそうになった。


「こうして顔を見たのは初めてかもしれぬな」

「そ、そうでしたっけ……」

「おぬし、いつも人の後ろにおるからのう」

「それは……そうかも」

「歳はいくつだ?」

「……二十三、ですけど」


 照れ隠しのように視線を泳がせる彼を見て、サラは朱を引いた切れ長の瞳を細めた。


「ふむ。我の三つ下か……」


 その呟きに、ウシオは首を傾げた。


「え? なんなんですか、一体」

「ふむ……」


 狼の尻尾をゆらりと揺らし、サラは口元を木杯で隠しながら、悪戯っぽく、けれどどこまでも優しく微笑んだ。


「……なんでもないぞ」


 春の風が二人の間を通り抜ける。


 火の神殿には、今日も子供たちの笑い声が響いていた。


 長い冬を越えたその場所には、確かに明日へ続く灯が残されている。

 その灯を守る二人の歩みは、まだ始まったばかりだった。



【完】


 〜あとがき〜


最後までご覧くださりありがとうございます。


一見、夢にあふれてそうなファンタジー世界における、仕事の現場の物語――いかがでしたでしょうか。


今作は、理想を本気で信じ、誰よりも命を尊ぶサラという女性を通して、「理想を掲げる人」と「それを支える人」の姿を書いてみたい――そんな想いから生まれた物語です。


現実の世界でも、医療、介護、福祉、教育などの現場では特にこの理想と現実の問題がつきまといます。


「ファンタジー世界でも、仕事の苦労は案外変わらないのかもしれない」


そんな発想から書き始めたはずなのですが、気がつけば理想を掲げるサラと、それを支え続けるウシオの、バディ色の強いお仕事物語になっていました。


この物語の中で灯った火が、皆様の日常をほんの少しでも温かく照らすものになっていたなら、とても嬉しく思います。


貴重なお時間を割き、この物語を最後まで見届けてくださったあなたに、心より感謝申し上げます。


これからも、一つひとつの命や想いに向き合う物語を書き続けていきたいと思います。


皆様の変わらずのご多幸を祈って――



      2026年 7月 暑い夏の日に――


              真上悠


挿絵(By みてみん)


エンディング主題歌『灰の中で立つ』


[https://youtu.be/RvEaz5nJcl8?si=VQOIfAtCvA5g_hK4]


URLからYouTubeに移動致します。

宜しければご視聴ください。

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