再出発
むかしからずっと、本が好きでたまらなかった。
本を開けば、わたしは誰にでもなれる。
勇敢な騎士や、悪い魔法使い。
お姫様の親友のドラゴン。
森に住む小さな野兎。
小川を泳ぐ小魚。
規則正しく並んだ無機質な黒い文字から、鮮やかな世界を想像して没頭するのが、大好きだった。
幸運なことに、わたしは裕福な綿織物の商家の長女に生まれ、読みたい本は簡単に手に入れることができた。教育に悪いから、俗っぽすぎるから、なんて親に咎められて買ってもらえなかった本は、街の小さな図書館でこっそり読み漁った。ひとりで読書ばかりしていたわたしに、ろくに友達はいなかったけれど、不満はなかった。
4歳下の弟にだって、人間とお喋りをする動物たちの物語をよく聞かせてあげた。
彼は勉強は大の苦手で、5分も座っていられなかったけれど、わたしが読み聞かせる物語には大人しく耳を傾けた。わたしは、毎回、わざと「きりの悪いところ」で読み聞かせを終えるから、続きを早く知りたかった弟は、自分で本を読むようにすらなった。
わたしが成人するすこし手前、婚約者が決まった。
あちらは貴族の血筋だけど、財産に乏しかった。
こちらは庶民だけれど、貯えなら充分だった。
華やかな社交界への出入りを期待した両親は、わたしに結婚を勧めた。わたしは『ひとりで本を読んでばかりいる親不孝者』だという自覚はあったから、快く引き受けた。両親が喜んでくれるなら、本が読める環境があるなら、結婚する相手に興味はなかった。初めての挨拶を交わした婚約者はわたしに優しかったけれど、それだけだった。それで充分ではあった。
弟は少し、怪訝だったけれど。
そうして、幸せにくらしましたとさ。
めでたし、めでたし。
物語は、そういう一文で締められる。
けれど、現実はまったくちがう。
人々の努力は報われないし、なんの脈絡もなく不幸が降り注ぐし、悪が善を踏みにじる。最悪なのは、エピローグまで辿り着かずに、人生がぷっつりと途切れることだ。
徴兵された弟は、凶弾によって命を落としたと報告された。遺体は回収できず、彼の階級と名前が刻まれた小さな金属板だけが帰って来た。
空襲によって、父の紡績工場が焼け落ちた。逃げ遅れた従業員がいないか確かめに行ってしまった父は、そのまま戻らなかった。
愛する息子と夫を亡くし失意に堕ちた母は、急激にやせ衰え、肺炎であっさり死んでしまった。
財産を失った我が家に、婚約破棄を知らせる手紙が届いた。
驚きはしなかったが、落胆した。
「ああ、ほんとうにひとりぼっちになってしまった。」
しかし、親不孝者のわたしにも、不幸と幸運の天秤が平等に釣り合うよう神様が図らってくださる。手紙はもう一通あった。金色の蝋風が施された、再出発のための切符。
『王立図書館 職員採用通知 ミラ・テイラー殿』
また、本に囲まれた生活ができる。
焼け落ちた工場による借金返済と差し押さえで、財産はすっからかん。今日のパンもままならないわたしは、たいせつな宝物である本たちを少しずつ売って、細々と生活をしていた。隙間なく埋まっていた本棚は、もうほとんどなにもない。それでも、よく読み聞かせていた、弟が好きだった動物の物語だけは、手元に遺した。その深緑色の表紙の本に採用通知を、栞のように丁寧に挟んで、そっと鞄に詰め込む。
残り僅かなオイルが入った手持ちのランタン、固くなったパン一切れ、心もとない小銭。家の鍵に、古びた筆記具、色褪せた日記帳。王都に出向くには、見すぼらしすぎる持ち物だ。
からっぽの生家の扉を閉じ、駅へと歩き出す。
土は凍り始めており、一歩ごとにざくざくと音を立てる。
頬を刺す冷たい北風が、灰色の雲を連れだっていた。




