記憶にない二人
屋敷に戻った翌朝は、やけに“整いすぎていた”。
昨日までの重苦しさが、薄く引き伸ばされて、代わりに静かな規律だけが残っている。
空気はまだ冷たいのに、人の動きはどこか滑らかで、まるで何かを忘れたことで軽くなったような――そんな、奇妙な均衡。
そして、朝早く。
鴻とシオ、それに数人の護衛と付き人は、王城へと呼び出された。
理由は告げられていない。
だが、誰も疑問を口にしなかった。
疑問という“棘”そのものが、最初から抜かれているみたいに。
王城の一室。
窓は閉ざされ、外の光は薄い布越しに濁っている。
その中で王の側近が、淡々と告げた。
「昨日の件に関して、最終確認を行う」
短い言葉。
だが、その響きはどこか“終わらせるための音”だった。
一人ずつ、名前を呼ばれる。
前に出る。
問いが落ちる。
答える。
それだけのはずなのに。
――どこか、感覚がずれていく。
鴻が呼ばれた時。
「……お前は、あの馬車に誰が乗っていたか覚えているか?」
「ミアと」
そこで、わずかに言葉が引っかかる。
もう一つ、何かがあったはずなのに。
「それと……」
空白。
言葉が、霧の中に沈む。
「……それと?」
促される。
鴻は眉を寄せる。
だが、その“違和感”は、形になる前にほどけていく。
「いえ。ミアだけです」
自分でも、どこか納得していない声音。
だが――それ以上、掘り下げる気にはならなかった。
いや、“ならないようにされている”。
同じことが、シオにも、他の者にも起きていた。
思い出そうとすると、指の間から砂がこぼれるみたいに消えていく。
残るのは、曖昧な輪郭だけ。
やがて、確認は終わる。
「ご苦労」
その一言で、すべてが閉じられた。
部屋を出る頃には――
“違和感そのもの”が、どこか遠くへ流れていた。
屋敷。(玲視点)
私は、まだ部屋にいた。
目は覚めている。
だが、視界はどこか薄い。輪郭が定まらない。
(……夢)
そう思う。
そう思ってしまえば、“何か”に触れなくて済む気がした。
ノックの音。
三回。間隔は一定。
聞き慣れた叩きかただった。
「玲様、戻りました」
シオの声。
私は顔を上げる。
「……ねぇ」
自分でも驚くほど静かなで小さい声がでた。
「彼は…見つかった?」
言った瞬間、空気がわずかに止まる。
理由は分からない。
だが、"止まった"と分かる程度には、静かになった。
シオの方に視線を送るとシオの表情が、わずかに揺れた…?
「…彼……?」
と繰り返す。
その発音に違和感が混じる。
名前として扱われてない音。
「……それは、誰……いや……」
言葉が崩れる。
「……彼は……。あぁ…」
思い出そうとしている動きだけが分かる。
だが、答えが出ない。
そして――
「……誰ですか?」
ぽつりと落ちた。
私の思考が、そこで止まる。
「……え?」
間の抜けた声が、零れる。
「彼だよ。あの時、一緒に……」
言いかけて、言葉が詰まる。
自分の中で何かが噛み合わない。
説明できるはずだった。
どこで会ったか。
何をしたか。
(……あれ?おかしい。)
言葉が…でてこない。
“あるはず”のものだけが、抜け落ちているみたい。
空白だけが残る。
そこで。
「……ミアは?」
問い直す。
今度は、はっきりと。
シオは、少しだけ目を伏せた。
「……ミア……様……」
なぜか、名前が、遠い。
距離があるみたいに。
「……えぇと……」
曖昧に揺れる。
「……事故で……」
それだけ。
それ以上が、出てこない。
悲しみも。
怒りも。
何も乗ってない。
まるで“他人の話”みたいに。
──違う。
違うはずなのに。
胸の中で何かが軋む。
(……おかしい)
今度ははっきりと、そう感じた。
その後、私は何人にも同じことを聞いて回った。
護衛。
使用人。
付き人。
だが…。
「彼を知らない?」
「ミアはどうなったの?」
返ってくるのは、どれも似たような答えだった。
「……誰ですか?」
「…ミア……様……?」
知っているはずなのに、知らない。
覚えているはずなのに、曖昧。
まるで、そこだけ“削り取られた”みたいに。
屋敷全体が、静かに歪んでいる。
部屋に戻る。
扉を閉める音が、やけに重い。
(……幻であって)
そう願いながら、引き出しを開ける。
中にあるはずのもの。
昨日、自分で入れたもの。
指先が、それに触れる。
取り出す。
――ブレスレット。
冷たい光。
見慣れた形。
世界に一つだけのもの。
私が、ミアに贈ったもの。
幻なわけがない。
現実は、そこにある。
「……あぁ」
小さく、息が零れる。
何かが、崩れる音がした。
押し込めていたものが、一気に外へ押し出される。
(……いない)
理解する。
ゆっくりと。
ミアは、もう――
「……あぁ……」
言葉にならない声。
(あの時)
思い出す。
(私が、倒れなければ)
(何のために……)
(鍛えたんだ)
指が、わずかに震えた。
(守るって……言ったのに)
目は乾いたまま。
涙は出ない。
それが、余計に嫌だった。
「……なんで」
掠れた声。
天井へ、手を伸ばす。
届かないと分かっているのに。
「……なんで、ミアが……」
世界は、ひどく静かだ。
望んだものほど、遠ざかる。
守りたいものほど、零れ落ちる。
まるで、最初から決まっていたみたいに。
「……私……」
自分が、嫌になる。
何も守れなかった自分が。
何も感じきれない自分が。
「……最低だ」
その時だった。
――カタリ。
小さな音。
視線を向けると。
一冊の本が落ちていた。
多分、本棚その上段から、古い装丁。
埃を被っているはずなのに、どこか綺麗なままの一冊。
(……なんで)
不思議と、目が離せない。
引き寄せられるみたいに、歩み寄る。
しゃがみ込み、手に取る。
軽い。
だが、その重さは、妙に“中身”を感じさせた。
表紙には、何も書かれていない。
題名がない。
ただの、空白。
それが逆に、不思議と惹かれた。
私は、無意識にそれを開いた。
ぱらり、と。
紙の音が、静かに響く。
そして――
中に書かれていたのは……。




