番外編 時の間
一話だけ追加しました。
エーブはセリーのボートを引き揚げるべくマルマロー湖へ探査魔法を放った。
手漕ぎボートとオール、日傘一つと本一冊を回収した。セリーのエネルギーの痕跡を辿れば容易に発見できた。
日傘を乾かし、防水加工の魔法を施して、雨の日でも使用出来るようにしておいた。
セリー嬢が読んでいたであろう本は『時の間』という詩集だった。
読書家である若い貴族達が思春期になると大抵手に取る、青春の一冊だ。
フッ、ご令嬢は若いな。俺も読んださ、かつては。
かつてはと懐かしむ程、自分はまだそんな歳では······、いや、もうそんなに年月が過ぎたのか?
エーブはいつの間にか十余年が過ぎ去ったことに気がつき、軽い衝撃を受けた。
今度日傘と一緒に本を返そう。
それよりも、ボートの水抜栓だけが見つからないのはおかしい。最初からなかったなんてあり得るのか?
ボート周辺に残る痕跡に、あえかに煌めく散り散りのものがあった。
『散しもの達よ、姿を戻しその名を語れ』
散り散りのものが、詠唱するエーブの手の中に集まり、棒状の姿になった。
生物であれば自ら名を語るが、待てどもそれは語らなかった。
「これはなんだ?」
エーブは棒状のものを水に浸すと、それはゆっくりと溶け始めた。
少し嘗めて見ると、その正体がわかった。
「岩塩だったのか」
まさかこれを栓の代わりにしたと言うのか?
水抜栓の穴に嵌めてみると、ピタリと合った。
「······これは!」
令嬢は命を狙われている?それとも自分でやったのか?
エーブはヴィルジェールにこの事を報告し、自分の仮説を伝えた。
ヴィルジェールは自分の影(護衛)の一部をコテージにいるセリーに配置した。
「ヴィルおじさんに話してごらん」
珍しく自分の主人が、令嬢の扱いで迷走している。ここまでフォローが必要になることはあまり無い。
セリー嬢に日傘と本を返却すると、パッと瞳を輝かせた。
日傘に追加した魔法を伝えると、更に瞳を大きく見開いて輝かせる姿は年相応の令嬢に見える。
「ありがとうございます!」
男装をしていても可憐さは変わらない。活発で利発そうな彼女によく似合っていた。
短い髪が彼女の魅力的な顔立ちをより引き立てている。
「『時の間』の初版ですね。詩集がお好きなのですか?」
「好きというよりも、今は色々読んでみたくて」
「わかります。私も昔読みました」
「何の話だ?」
ヴィルジェールも読書家ではあるが、詩集の類いは食指が動かなかったので、その本の名前は知っていても未読だった。
「エーブ、お前は読んだのか?」
「ええ、悩める思春期にはもってこいですので」
「そうか、今度読んで見よう」
「悩める青年にもお薦めですよ」
セリーは口を手で覆いながら笑った。
「セリー様は、推理小説は読まれますか?」
「少しは」
「では『復讐の合言葉は目には目を』は読みましたか?」
「·······えっ!?ええ。友人に借りて読んだばかりです」
エーブは主に目配せをした。
今のはセリー嬢自身が岩塩を使用した可能性を知るための質問だったからだ。
少し返答に焦ったところが、よりその確率を高めた。
その推理小説は乱読家のエーブも読んでおり、トリックは岩塩ではなくて砂糖の棒だったと記憶していた。
避暑地とはいえ、夏に砂糖の棒を使うと蟻やその他の虫がたかりそうだ。岩塩の棒を代用したのはそのせいだとしたら、用意周到だ。
十五歳の少女がこんな方法で自身を殺してしまいたくなる衝動とは一体······。
『時の間』と共に湖に沈もうとした令嬢にエーブは心を痛めた。
「ヴィルおじさんではなく、エーブおじさんに全部話してごらん」と言ってしまいたくなる。
これではヴィル様を笑えないなと、苦笑した。
セリー嬢がヴィル様に心のうちを話せば、その理由をいずれ知ることができるだろう。
エーブはそれまで待たなくてはならない時間が恨めしかった。
セリー様、どうか早くヴィル様に洗いざらいお話し下さいますように。
エーブは直接彼女に尋ねてしまいたくて仕方がなかった。
***
ロランス子爵殺害の一件が片付き、デパロー辺境伯の元へ赴くセリー嬢をヴィルジェールと共に見送った際、砂糖の棒を岩塩に代えた理由を尋ねて見ることにした。
防蟻や防虫のためですかと聞くと、セリー嬢は目を丸くして驚いた。
「······そんなこと、全く考えもしませんでした···!」
「ええ!?」
「あれは本当にたまたまキッチンにあったから試しただけなのです」
セリー嬢は顔を赤らめた。
時々あまりにも抜けている面があって、それで彼女がまだまだ少女なのだと実感させられる。
そこが非常に可愛いらしいところでもあるのだ。
「どうかお気になさらず。セリー様は今のままでよろしいのです」
「は···い」
セリー嬢を見送ったその足で、エーブは王都の書店で『時の間』を買い求めた。
主の分も忘れてはいない。
「ヴィル様、こちらがそうですよ」
「何のことだ?」
「悩める青年のための必読書です」
ヴィルジェールはすっかり忘れていた。
(これは······読みそうにないな)
やれやれと思いながら、買ったばかりの『時の間』の一頁目をエーブは開いた。
目次もなく唐突に「麗しの乙女に」というタイトルの詩からはじめる詩集だったことを彼もすっかり忘れていた。
自分の中の無常なる忘却に、思わず手が止まった。
今度の休みには初版本を探しに行こう。
いつかセリー嬢と、この詩集について語り合いたいものだな。
(了)
ええと、捕捉ですが、セリーのエーブへの想いは密かに寄せているものです。
ヴィルジェールとはあくまでも友人で婚約も結婚もしません。