財産目当てで結婚した
アンソニー・ロバート・ブラウンとオリビア・ジェニファー・サリバンの結婚は、十年経った今でも社交界の話題に上るほど衝撃的なものであった。
当時のアンソニーは学園を卒業したばかり。在学中は甘いマスクとやわらかな物腰で理想の貴公子として名を馳せていた。子爵家の次男と身分は低かったが、それを上回る成績と顔の良さで同じく学園に通っていた王女殿下まで虜にしていたものである。
数多くの女生徒を魅了していたアンソニーだったが、しかし身持ちが固かった。いずれ独立するか婿入りするかの自分が浮名を流して実家に迷惑をかけるわけにはいかない。そう言って遊びの誘いを断っていた。
そんな真面目なところに本気になる女生徒も多く、アンソニーを巡って女の戦いが起きたこともあったという。
そんなアンソニーが外聞を憚らないほど本気になり、口説きに口説き、彼女にふさわしい男になりたいと懸命になった女性。
オリビア・ジェニファー・サリバンは、影の薄い少女だった。
父親のサリバン侯爵そっくりの顔立ちはいかにも地味で、長い黒髪に一重の細い目は蛇のようだと特に女生徒に蔑まれていた。本人も自覚しているのか社交嫌いで、婚約者もおらず、一人娘でいずれ婿を取ってもすぐに愛人を作って捨てられるだろうと嗤われてさえいたのだ。
そんな、正反対の二人が結婚。
口さがない貴族は金目当てだとアンソニーを蔑み、愛人の座を狙う女性陣は舌なめずりした。
そして、そんなアンソニーを諦めきれない女が一人。
「やあ、アンソニー。珍しいな、夜会に来るとは」
「やあ、ジョージ。いや、チェスター伯爵」
「ジョージでいいよ。未来のサリバン侯爵」
ジョージ・マイヤー・チェスターはアンソニーの学生時代からの友人だ。からかわれたアンソニーは困ったような、それでいて嬉しさを隠しきれない笑みを浮かべる。
「今日は王女殿下のバースデーパーティだぞ。よく奥方が許したな?」
「断り切れなかったんだよ……。義父上からは出席するのが大事だと言われてしまったし」
イザベラ王女は本日の主役であり、学生の頃アンソニーにしつこく言い寄ってきた一人でもある。
アンソニーがオリビアと結婚した時など卒倒して三日間も寝込み、自身の結婚が決まった時は「私を連れて逃げて」とやらかした。非常に迷惑な女性だった。
「王女も諦めが悪いな……。今何人目?」
「五人目だ。予定日はまだだが腹が大きくなって、時折しんどそうにしているのが見ていてつらい……。こうしている間にオリビアに何かあったらどうしてくれるんだ」
周囲の憶測をよそに、アンソニーとオリビアの夫婦仲は良好だった。
結婚は政略で、恋愛は愛人と。そんな風潮のある貴族において、夫婦仲が良好というのは珍しい。
もちろん互いに愛人のいる夫婦でも表面上取り繕いはする。子供たちの前でいがみ合ったり、公式の場に愛人を連れて行くのはマナー違反だ。
だからこそアンソニーのように、夜遊びもギャンブルもせず、浮気もしない男は既婚未婚問わず人気があった。イザベラが諦めきれないのも無理のないことである。
「奥方さえいなければ自分が、と思ってるんだろうな」
「そういう女がいるからオリビアは社交が苦手なんだ」
アンソニーが吐き捨てた。
侯爵家の一人娘でありながらオリビアは社交に出たがらず、たまに出ても壁の花。子供の頃の茶会で蛇女とからかわれたのがトラウマになっており、婚約者もなかなか決まらなかったのだ。
「義父上と義母上も出席しているから滅多なことはしてこないと思うが……」
アンソニーはイザベラと目を合わせないように、それでいて近づかないよう視界に入れながら行動していた。まるっきり猛獣を前にした時と同じ構えである。言葉を交わしたのは開催直後の挨拶だけ。それも義両親と一緒だった。
しかし夜会の中盤、そんなアンソニーに焦れたのか、イザベラの従者が一人になった隙を見計らって声をかけてきた。
「アンソニー・ロバート様。イザベラ殿下が別室でお待ちでございます」
あからさまな不倫のお誘いにアンソニーは眉を顰めた。
「……聞かなかったことにいたします。ハンス殿下もおられる夜会で、王女殿下のなさりようとは思えませんな」
ハンスはイザベラの夫である。彼もまたアンソニーに負けず劣らずの美形で、しかも同盟国の公爵家出身という申し分ない身分だった。もちろん政略結婚である。
同盟関係にヒビを入れかねないイザベラにアンソニーは怒りを抑える。恋は彼女の気持ちであるし想うのは自由だ。だが、それに巻き込むなと言いたい。
「殿下の命ですぞ?」
アンソニーに断られるとイザベラに叱責されてしまう従者が王女の威光を振りかざして睨みつけた。アンソニーはフッと鼻で笑った。
「では、ハンス殿下と共に参りましょうか。王女も不名誉な噂が立つのは本意ではありますまい」
「…………っ」
従者は黙り込んだ。
正論だからこそ反論しにくい。まさかここまでアンソニーが頑なだと思わなかった従者は、ハンスを同伴させて夫婦喧嘩を招待客に見せるより、一度イザベラに伺いを立てたほうが良いと判断した。王女の配偶者に「お前の嫁なんとかしろよ」とは言えないだろうが、周囲で聞き耳を立てている貴族が何と言うか。なにしろアンソニーは愛妻家で有名なのだ。
「……わかりました。殿下に伺ってまいりますのでしばしお待ちください」
「バルコニーに出ています」
去っていく従者にため息を吐き、さりげなく見守っていた義両親のサリバン侯爵夫妻に目配せをして、アンソニーはバルコニーに向かった。
王城のバルコニーは愛を囁くのにぴったりの場所だが、密室にはならない。必ず誰かしらの耳目があり、隠れて見張れるよう観葉植物が配置されていた。アンソニーがチラッと確認しただけでも物見高い人々が移動しているようだ。
やれやれ、とアンソニーは持ってきていたワインを飲んだ。飲まなきゃやってられない気分だ。
「アンソニー」
やがて、イザベラがやってきた。
今夜のための真紅のドレスに身を包み、怒ったような、哀しいような、せつなさを滲ませた表情を浮かべている。
イザベラは文句なしの美女である。豊かな金髪に蒼くきらめく瞳、くっきりと整った目鼻立ち。二十八歳と歳をとっても少女のような若々しさである。子供がいないせいか、体型が崩れることもなかった。
「イザベラ殿下、二十八歳のお誕生日おめでとうございます」
アンソニーは女性にとってのタブー、年齢にかこつけて当たり障りのない言葉を放った。
イザベラの顔が一瞬引き攣る。これくらいは軽いジャブである。
「あ、ありがとう。アンソニー、一曲踊っていただける?」
「あいにくと、そろそろお暇しようと思っていたところです」
女性からダンスに誘うのは、マナー違反とまではいかないが、はしたないとされている行為だった。恋人や兄弟など、よほど気心の知れた相手でないと誘っても受けてもらえない。アンソニーはさっさと用件を言えと断った。
「……今夜は誰とも踊っていないでしょう?」
「身重の妻を家に残しておいて踊る気にはなれませんよ。ファーストダンスもラストダンスも、妻だけと決めております」
これも有名な話だった。アンソニーはオリビア以外と踊ろうとしない。社交嫌いとわかっているオリビアがアンソニーのために出席してくれるのだ、無理はさせたくなかった。
常にオリビアの隣にいて、オリビアを悪意から守っている。
ギリ、とイザベラが歯を食いしばった。
美貌も身分もイザベラが勝っているのに、アンソニーが選んだのはあの地味な蛇女オリビアだった。
王城で茶会デビューとなる十歳の子供たちを集めた場で、オリビアの容姿を嘲笑ったのはイザベラと彼女の取り巻きだった。貴族らしく美少女ばかりだった茶会で、重たげな黒髪に一重の細目、引っ込み思案な性格のオリビアはイザベラの格好の獲物にされたのだ。あんな蛇女となんて仲良くできるわけがないとさんざんに罵った。
泣いて逃げ帰ったオリビアに勝ち誇っていられたのは数日だけだった。一人娘を溺愛するサリバン侯爵家が報復に出たのだ。
イザベラと一緒になってオリビアを笑い者にした取り巻きの家は「満足に教育もできない」として社交界で総スカン。イザベラの乳母や教育係、メイドたちは監督不行届きで全員クビにされた。
イザベラに甘い祖父や父が手配した者ではなく、サリバン侯爵の息がかかった者が新しく入ってきた。常に監視されたイザベラは息苦しさを覚え、父王に元に戻してほしいと泣き付いたが、逆に怒られてしまった。
サリバン侯爵家は古くから続く名家で、王妃や王族の配偶者を輩出したこともある。発言力が強く、そしてだからこそ謙虚で慎ましい。なによりその結束の固さは王家でも侮れないのだ、と。
貴族の纏め役でもある、まさに重鎮。そんなサリバン家の至宝ともいえるのがオリビアだった。
あの屈辱からずっとイザベラはオリビアを目の仇にしてきた。自分でやったらまた不自由になると思ったので周りの者にオリビアの悪口を吹き込み、学園ではオリビアを孤立させてやった。
そのせいでイザベラの周囲から真心ある貴族が去っていき、今の取り巻きは王女の威光目当ての者しかいないのだが、何の不都合もないため気づいていなかった。
それなのにイザベラが恋したアンソニーはオリビアを選んだ。イザベラには一度も与えられたことのないやさしい眼差し、オリビアの良さを見つけては褒める甘い美辞麗句。すぐに愛人を作るという予想に反してアンソニーはオリビアひとすじで、子供までいる。
冷めた政略結婚のイザベラはオリビアが憎くてたまらなかった。それが羨望であることを彼女は認められずにいる。
「……アンソニー、あなたはどうしてオリビアと結婚したの?」
アンソニーはイザベラがオリビアを憎んでいることにとっくに気づいていた。
そのきっかけも義両親から聞いて知っている。自分がその憎悪を焚きつけてしまった自覚はあるが、だからといって愛する妻との仲を引き裂こうと企む女を許せるほど寛大にはなれなかった。
ここでイザベラの誘いに乗っても憎悪が晴れることはない。オリビアが死ぬまで、死んでも貶め続けるだろう。
「殿下もご存知の通り、サリバン家の財産目当てですよ」
イザベラは瞬時に喜色を浮かべた。周囲が息を飲むのが聞こえた。
「オリビアは義父上に似て黒髪はやぼったく細目はまるで周囲を睨みつけているようでした」
「そうよね!」
「ですが内面は実に心映えの良い女性です。思いやり深く、まめまめしくよく働き、それでいて感謝を忘れません。使用人だけではなく家に来る商人たちにも「ありがとう」と言ってくれます。それがどんなにあたたかく、心にしみわたることか……。そしてオリビアの最大の美点は愛情を持っていることです。社交の苦手なオリビアが私のためにと頑張って、話題集めや勉強をしているのを見ると涙が出そうになります。日々穏やかに過ごさせてあげられたらどんなに良いでしょう。身ごもるたびに悪阻や出産で大変なのに笑顔を忘れず、疲れた顔をなるべく見せないようにしているのには何度代わってあげたいと思ったことか。私は、イザベラ殿下。こんな夜会に出るよりも妻と子供たちといるほうがはるかに幸せですよ」
立て板に水とばかりに語り出したアンソニーにイザベラはぽかんとし、しだいに顔が歪んでいった。
「今のオリビアは黒髪は銀河が輝く夜空のよう。細い目は聖母そのものです。おわかりですか、殿下。オリビアこそサリバン家の至宝、財産なのです。私はオリビアの夫として、彼女を傷つける何者とも戦う覚悟はできております」
「どうしてよ!? わたくしのほうがうつくしいし、わたくしのほうが身分だってある! わたくしだってあなたの子を産めるわ! わたくしがあなたを愛してあげるというのにどうして!? わたくしの何が不満なの!?」
聞きたくない、と激しく首を振って拒絶するイザベラに、アンソニーはとどめを刺した。
「私はオリビアを愛しているのです」
パチパチパチ……
軽い拍手が聞こえて振り返ると、イザベラの夫であるハンスが手を叩いていた。
「ハンス殿下」
「素晴らしいね、アンソニー・ロバート。羨ましいよ」
ハンスはにこやかにそう言うと、笑顔のままイザベラを見た。
夫以外の男に迫っていたのを見られたイザベラは蒼ざめて震えている。
「イザベラ、君の気持ちはよくわかった」
「違う、違うの!」
「君のためにとっておきのプレゼントをあげよう。――ああ、アンソニーやサリバン家には悪いようにはしないから」
「畏れ入ります」
これだけで何を与えられるか察したイザベラがフッと気絶した。ハンスが受け止め、やってきた従者に彼女を渡す。まったく義務的な、愛情を感じられない動作だった。
ハンスがバルコニーから出るのを待って会場に戻ると、イザベラとのやりとりを聞いていた貴族たちが微笑ましい目をアンソニーに向けていた。
もう帰ろうと義両親を探すも見当たらない。そこにジョージ・マイヤー・チェスターが近づいてきた。
「ジョージ、サリバン侯爵夫妻を見なかったか?」
「お二人なら馬車に向かわれた。アンソニーを待ってるぞ」
「そうか。ありがとう、ジョージ」
別れの挨拶をすると、ジョージが笑って言った。
「やったな、アンソニー」
アンソニーはただ微笑むと、義両親の待つ馬車へと急いだ。
馬車の中では義父のピエール・チャーチル・サリバン侯爵が号泣していた。
「義父上、どうされたのですかっ?」
アンソニーが乗り込むと馬車が出発した。ようやく泣き止んだピエールだが、まだ言葉が出せないらしい。代わりにローラ・マリーゴールド・サリバン侯爵夫人が答えた。
「婿殿に感動しているのですよ。オリビアこそサリバン家の財産。よく言ってくれました」
「事実を述べたまでです。あれほど素晴らしい妻は、どんな宝にも代えられません」
一片の疑いなく言い切ったアンソニーに、ローラの目も潤んだ。
「私たちの子育ては、間違っておらんかった……っ」
ようやくピエールが言った。涙の絡んだ声には万感が籠っている。
オリビアが生まれた時、ピエールもローラもどうやら美人にはなりそうにないな、と思ったのだ。
ピエールに似た黒髪と一重の細目。ローラの髪質を受け継いだ硬くて太い髪。両親の悪いトコどりをしてしまった形である。
ローラは出産後に体調を崩し、医者に二人目は無理だと言われた夫妻はオリビアを溺愛した。顔が美人でなくても侯爵令嬢なら婿候補はいくらでもいる。しかしそれでもオリビアが不幸な結婚をしないよう、教養があって気立ての良い娘になるように育ててきた。
女は顔じゃない、というのはオリビアがブスだと認めるようでとても口には出せなかったけれど、いつか結婚する人のために努力しようと言い聞かせてきた。
そんな大事な愛娘をイザベラ王女は苛め倒してくれたのだ。イザベラが夢中になっているアンソニーが近づいて来た時は何かの罠かと疑いもしたが、アンソニーは本当に、オリビアを慈しんでくれたのである。
理想の貴公子と言われていたアンソニーは、顔で苦労してきたのだろう。聞き慣れない口説き文句に緊張して怯えるオリビアの表情の変化を彼は見逃さず、感情を上手に引き出してくれた。
見目良い令嬢や王女に言い寄られてもいっさい靡かず、オリビアひとすじのアンソニーに、この男なら、とピエールは結婚を許した。
自分たちは間違っていなかった。アンソニーが財産目当てと言った時は驚いたが、続く言葉の痛快さにピエールは感動が胸に迫り、とてもその場にいられなかったほどだ。思い切り泣いて、どうだうちの婿はこんなに素晴らしいのだと叫び出したい気分に襲われた。
「ありがとう、アンソニー」
涙に濡れた手で手を握られて、アンソニーは困ったように苦笑した。
「お礼を言うのは私のほうです。オリビアをあんなに素敵な女性に育ててくださって、ありがとうございます」
それと、と言って頭を下げる。
「私たちの子育てに協力してくださって……本当に感謝します。義父上と義母上がいてくださるだけで安心できます」
オリビアに不安な顔は見せないが、妊娠するたびにアンソニーはオリビアが倒れるのでは、と恐怖と戦っていた。
ローラの虚弱体質は出産がきっかけだった。オリビア出産時に生死の境を彷徨い、以来貧血気味で、少食になりすっかり痩せ細ってしまっている。
今のところオリビアは元気だが、悪阻、特に食べ悪阻が酷く、アンソニーは気が気ではなかった。
だからこそ義両親が手伝ってくれるのはありがたい。実家が子爵家のアンソニーには侯爵家はまだまだ大きすぎた。
サリバン侯爵家に到着すると、義両親は「私たちのことはいいからオリビアのところに」と自分たちの住む別邸に行ってしまった。
「おかえりなさい、あなた」
アンソニーが帰宅すると、使用人を連れたオリビアが出迎えてくれる。大きな腹が重たそうだった。
「ただいまオリビア。子供たちは?」
「もう寝ています」
オリビアの頬にキスをしたアンソニーは、彼女を支えるようにそっと腰に手を添えた。
「そうか。オリビアは、気分が悪くなったり、お腹が張ったりはしていないか? 食事はちゃんととれたか?」
「大丈夫よ」
くすぐったそうに笑うオリビアに微笑みつつ、アンソニーは家政婦を見た。女主人の補佐を務める婦人がしっかりうなずいたのを見て、やっと安心したように肩を落とす。
「そうか。でも無理はしないでおくれ。何かあったら遠慮せず私に言うんだよ? 君は我慢強いから、心配だ……」
「わたくし、四人の子持ちですのよ? アンソニーは心配しすぎだわ」
「私の愛が私たちの愛の結晶をその身に宿しているのだ。どんなに心配しても心配しすぎるということはないよ」
そんなことを真顔で言うアンソニーは、罪悪感に圧し潰されそうになっていた。
アンソニーがイザベラに言った「財産目当て」は正しい意味で真実だった。アンソニーはまさに侯爵家の婿という立場と、サリバン家の金目当てでオリビアを口説いたのである。
イザベラに苛められていたオリビアは社交嫌いで自己肯定感の低い、はっきりいってブスな顔をした少女だった。そんなオリビアなら結婚後に浮気しても諦めて従うだろうし、行き遅れ決定の娘をもらってくれたと義両親も文句は言えないだろう。そんな最低の打算であった。
アンソニーが身綺麗にしていたのはここで女好きの評価を得てしまうと好物件を逃すと計算が働いたからである。アンソニーはいろんな女を楽しみたかったし、イザベラに言い寄られた時などゲームの達成感に似た思いに顔が緩まないよう必死だった。言い寄ってくる女の子たちにはあえて未練が残るように断り、愛人リストに記していた。
そんな控えめにいって最低なアンソニーがどうしてこうなったのかというと、これもイザベラに言ったようにオリビアにベタ惚れしてしまったからである。
「アンソニー……」
愛する人に愛されている実感に、オリビアの黒い瞳が潤んだ。
口説かれはじめた頃こそアンソニーを疑っていたオリビアだが、恋に落ちると全面的に信頼し、尽くすようになった。オリビアが差配した食事や身の回り品、アンソニーと釣り合うようにと頑張るオリビアに、すっかり参ってしまったのである。
顔は、たしかに好みではない。美人とはお世辞にも言えないし、自信なさげにうつむかれると苛々した。
しかし、ここまで一途に愛してくれる女が他にいるだろうか――愛人でも良いという女たちを思い浮かべたアンソニーは、オリビアの純粋な愛情に衝撃を受けた。こんな女がいるのか、と感動し、彼女にふさわしい男になろうと決心した。
オリビアはアンソニーが遅くに帰っても必ず起きて待っている。体に良い物をと料理人に相談して食事を調え、アンソニーの贈り物に毎回頬を染めて喜んでくれる。
全身全霊でアンソニーを信頼し愛するオリビアを、愛さずにはいられなかった。そしてだからこそ、だからこそ、過去の自分を想うとアンソニーは罪悪感に襲われる。
「子供たちの顔を見てからベッドに行くよ。もう横になっていなさい」
「はい」
仲睦まじい若夫婦に侯爵家の使用人は安心して働いていられる。子供の寝室に向かうアンソニーに、ナースメイドは嫌な顔ひとつしなかった。
眠っている子供たちを起こさないようキスをして、夫婦の寝室に行く。予定日間近の腹は寝苦しいらしく、オリビアはベッドに横向きになっていた。
「夜会はどうでしたの?」
「イザベラ殿下のお誘いがあったよ、断ったがね。懲りないお方だ」
オリビアを必要以上に不安にさせないよう、それでも必要なことは伝える。いずれオリビアが侯爵家を継ぐのだ、知っておかなければ侯爵家も自分も守れない。
オリビアの長い黒髪を指で梳かしながらアンソニーは続ける。
「殿下になぜオリビアと結婚したのか問われたから、正直に答えたよ。財産目当てだ、とね」
冗談めかして言ったが心臓が嫌な音を立てて軋んだ。
これを聞いてオリビアがどう思うか。息を詰めて待つアンソニーの耳に、ひそやかな笑い声が届いた。
「まあ」
くすくす笑うオリビアはアンソニーの愛を欠片も疑っていなかった。
「殿下は信じましたの?」
「信じたようだ」
どっと体から力が抜け、アンソニーも笑った。
「私の宝石姫。君という至宝を得た私は世界一の果報者だ。それをご理解くださったよ」
あのイザベラの表情は、ただアンソニーに愛されていないだけではない。自分がそんな女ではないと思い知った顔だった。
「……イザベラ殿下は離縁されるかもしれない」
「それは……」
「いくらハンス殿下でも今回ばかりは大目に見られないだろう。……王女としても妻としても、臣下に不貞を持ちかけるなど。しかもハンス殿下もいる夜会でだ」
離婚理由は他にもある。イザベラとハンスの間には、子供がいないのだ。夫婦の交わりのない白い結婚ではないので、よほど相性が悪いのかどちらかに原因があるのか。それはわからないが、結婚して八年経つのに子供がいないのは充分な離婚理由になりえる。
サリバン侯爵家は悪いようにはしない、とハンスは言った。ならば全責任は、イザベラが負うことになるのだろう。
とはいえイザベラだけが悪いわけではない。ハンスは国元で浮名を流し過ぎて厄介払いされたような男だ。アンソニーと比べてしまったイザベラには、とうてい尽くすに値しない男に見えただろう。
ちなみにそんな男とイザベラの結婚をお膳立てした裏にはピエール・チャーチル・サリバン侯爵の工作がある。頼もしすぎる義父がどこまで考えてイザベラとハンスを結婚させたのか、想像すると背筋が寒くなった。
「イザベラ殿下はただ自分の感情に正直なだけですわ。どなたか殿下の良さを伸ばしてあげられる方はいらっしゃらないかしら……」
「そうだね」
オリビアは他人の悪口を言わない。それがどんなにつらいことか、身に沁みて知っているからだ。イザベラが学生時代の苛めの主犯だと知っても、今の幸福を思えば些細なことなのだろう。
やさしいオリビアにアンソニーはまた罪悪感が込み上げてきた。イザベラの現状はアンソニーにも原因があるのだ。
今夜のことでイザベラが反省し、自分を見直してくれたら、そしてオリビアへ余計なちょっかいを止めたら今度こそ幸せになれるだろう。
「それからオリビア、もしもハンス殿下に口説かれても靡いては駄目だからね」
「アンソニーったら」
オリビアは笑うがアンソニーは本気で心配だった。彼女の良さを知れば、どんな男だって手に入れたくなるだろう。
「わたくしはきっと、あなたに会うために生まれてきたんだわ……。だって、こんなに幸せなのですもの」
アンソニーの手に頭を摺り寄せ、オリビアは幸福そのものの顔で目を閉じた。
アンソニー・ロバート・サリバン
サリバン侯爵家の婿。実家はしがない子爵家。金目当てでオリビアと結婚したらあまりにも理想の女性でマジ惚れした。
金目当てだった後ろめたさがあるので浮気もギャンブルもしない。仕事が終わるとまっすぐ帰ってオリビアと子供たちと過ごすのが幸せ。
子供が産まれるたびに号泣。オリビアが体調を崩さないか毎回気がかり。
オリビア・ジェニファー・サリバン
サリバン侯爵家の一人娘。容姿でからかわれたのがトラウマになり、人見知りで引っ込み思案な性格になった。
社交嫌いでなかなか婚約できず、学園でアンソニーに口説かれて恋に落ちる。
好きになって尽くしまくったらお姫様にしてもらえた。溺愛、尽くす、溺愛のループで幸せ。
アンソニーと出会うために生まれてきたと本気で信じている。
ピエール・チャーチル・サリバン
サリバン侯爵。まだ婿には全権を移譲してない。まだまだです、と言われてアンソニーを教育中。さっさと引退して孫と遊びたいおじいちゃん。
娘を虐める子は王女であろうと許さない。
ローラ・マリーゴールド・サリバン
サリバン侯爵夫人。夫そっくりな娘の結婚を心配していたが、最高の男を捕まえてくれた。良妻賢母の鑑。
イザベラ王女
アンソニーの言葉の意味を考えるも、長年の自分ファーストは抜けずに結局離婚。アンソニーとオリビアの仲良しっぷりを見るたびにギィッってなるのに呼ぶのはやめない。ある意味タフ。
おそらくピエールが引退する頃にどっかの貴族の後妻になり、領地へ連れていかれる。
ハンス殿下
イザベラと離婚後は子爵位あたりをもらって悠々自適に暮らす。女好きは死ぬまで治らず、メンヘラひっかけて刺される最期かな。厄介払いだったので同盟にヒビが入ったりはしない。




