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天駆ける風夢  作者: 襟端俊一
第五章 私闘
28/35

「やっぱり不安だ……」


 三十分のノルマを終わらせるため湯船に浸かっていた秤は、浴槽の角に右頬を預けながら気怠そうに呟いた。

 秤の退学の是非を決める月一レースまで残り二日。

 その内の半分がもうすぐ終わりを迎える。

 実質、残された猶予は後一日だ。

 仮に秤が勝つための秘策を思いついたとしても、それを準備する時間は残されていない。


(途中経過とか、改造の方向性とかさ。少しくらい教えてくれてもいいのに)


 決して華を疑っている訳ではないが、どうしても心の焦りは消えない。

 秤の不安が増した原因は華の態度だった。

 身体測定の直後から、どうもよそよそしくなった気がするのだ。

 元々あまりコミュニケーションを取れていたとは言い難いが、前にも増して華の周囲には拒絶オーラが充溢している。


(やっぱり、この前の玄関での一件が原因かな……)


 楓と焔のお陰で華との距離が少し縮まったと喜んで、つい調子に乗ってしまった。

 あんなの、華からしてみれば蚊の羽音並みに鬱陶しかったことだろう。

 一応他の可能性もあるが、そちらは非常に聞きづらい。


(身体測定の結果が悪かったとか……? もしそうだとしたら腹の虫が治まるのを待つしかない。直接聞く勇気はないし)


 あの日は島全域を包み込むほどの負のオーラを感じたのに、終わってみれば誰もその話題を口にしない。

 男子がいる前で体重の話などしないのは当たり前かもしれないが。

 身体測定翌日、秤は焔に向かってサラッと「身体測定どうだった?」と聞いてしまっていたのだが、その直後に向けられた殺気を感じて「し、身長とか」と咄嗟に誤魔化したので、結果がどうだったのかは分からずじまいである。


(こんなに気になるなら、いっそ捨て身の覚悟で華のことを聞いておくんだったな。他の女の子のことを焔に聞くっていうのは失礼だけど)


 秤が大きく溜息を吐くと、呼応したようにタイマーがノルマ達成を伝えてくれた。

 湯船から上がった秤は、最後にもう一度体を流そうとシャワーに手を掛けたが、


(ん……来客か?)


 風呂場の外が騒がしい。

 華が騒ぐなどあり得ないが、華が見知らぬ客を部屋に招き入れることもまたあり得ない。

 秤は手に持ったシャワーを元の位置に戻し、そっと耳をすました。


『私、分かってるから! 私だけは、ちゃんと華ちゃんのこと分かってるから! 心配しないで。絶対に助けるよ!! 火の中でも水の中でも助けちゃうよ!! レスキューしちゃうよ!!』

『違う。貴女だけが分かってないの』


 華の声は相変わらずだが、もう一人の甲高い声は初めて聞く声だ。

 友人……だろうか。

 それにしては華の応対がおざなりな気がする。


『天座秤! 何処にいるの!? 隠れてないで出て来なさい! ネタは挙がってるんですからね! 観念しなさい!!』

『やめて』

『分かってる。脅されてるんだよね。大丈夫、私が助けるよ!! 火の中でも水の中でも助けちゃうよ!! レスキューしちゃうよ!!』

『……、』


 話が振り出しに戻ってしまった。

 秤は自分の名前が出て来たことで気が気ではなかったが、華の言動から察するにあまり存在を知られたくないようだ。

 ここは彼女の意を汲んで大人しくしているべきだろう。


『私ね、ママに聞いたの。華ちゃんのパートナーになった男は、極悪非道な血筋の一族だったんだよ』

『?』

『天座李下って知ってる? 私のママのお姉さんなんだけど、本当はこの学校を受け継ぐのはママじゃなくてその人だったの。なのに責任を全てママに丸投げして、勝手に何処か行っちゃったの。天座秤はそんな女の血を引いてるんだよ!! デンジャラスだよ!!』

『貴女も同じ血筋じゃ』

『それだけじゃないの! 私は小さい頃から天座李下の自由奔放な振る舞いに振り回されてきたママをずっと見てきたから分かる! 天座秤は危険だって! ワーニングだよ!!』


 名前が出てくる度に動悸が起こる。

 とりあえず一番突っ込みたいところは華が言ってくれたが、それ以外の情報は目新しいものばかりだったので色々と思うところがあった。

 まず、『私のママのお姉さん』『学校を受け継いだ』という話からして、この全く人の話を聞かない客は天座スピカに間違いあるまい。

 そして母親同士が姉妹なら、秤にとってスピカは従妹ということになる。

 相当近い親戚だった訳だ。

 どちらも女性だというのに名字が変わっていないところからして我の強さが窺える。


(でも校長が母さんに振り回されてたってのは本当だろうな……)


 そう思うとその息子である秤としては複雑極まりない。

 一言だけでも謝るべきか、なんてことを考えた直後だった。


『そんなこと、秤先輩を責める理由にはならない。その人はその人、秤先輩は秤先輩』

『そ、それはそうだけど! そういう人間かもしれない! 華ちゃんを傷付けるような男かもしれない! 私はそれが心配なの!! 朝も昼も夜も眠れないの!! ソリシテュードなの!!』

『……例え秤先輩がそういう人だったとしても』

 華は大きく間を溜めて、言葉を続けた。


『貴女には関係ない。私の人生の選択肢を勝手に決めないで』

『!!』


 風呂場からでも分かるくらいに空気が一変した。

 それは何よりも言われたくない台詞だったはずだ。

 散々秤の母親を『自分勝手』と罵った天座スピカにとって、自分自身を罵られたのと同義だから。

 少しの間を置いて、大きな足音共に玄関の扉を開け放つ音が聞こえた。

 タイミングを見計らって忍び足で風呂から出る。


(何も聞いてなかった体で出るか……全部聞いていたと話すべきか……)


 かなりご機嫌斜めであることが予想できたため、対応を間違えると最悪明後日のレースにまで影響しかねない。

 秤は数年ぶりに鏡の前で髪型を整えてから華の下に向かった。


「……華?」

「……」


 玄関の方に視線を送ったまま呆然と立ち尽くしていた華は、秤の声に何の反応も見せなかった。

 秤が風呂から上がって着替えるまでに数分は経過している。

 湯船に三十分浸かるノルマを大幅にオーバーしているため、普段の華なら文句の一つでも言ってくるはずだ。

 それなのに、秤の存在など意に介さずジッと玄関を見つめている。


(まさか……ただ迷惑なだけじゃなかったのか?)


 華にとって、スピカに付きまとわれることは迷惑以外の何物でもないのかもしれない。

 しかしだからと言って、絶交して何とも思わないような存在でもなかった。

 少なくとも、傷付けたことを気にしてしまうくらいには。

 焦る気持ちを抑えながら、秤は目の前の華を素通りして外に飛び出した。


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