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湿った地面に足を付けた秤を待っていたのは、楓による強烈な平手打ちだった。
小気味よい音が辺りに響き渡る。
「どうしてあんな無茶したのよ!! 一歩間違えたら……っ」
「まあまあ。スタートダッシュを教えた私にも責任はあるんだし」
今にも爆発しそうな楓を焔が宥めるが、
「そういう問題じゃない!!」
「それよりも秤さん、お怪我はありませんか?」
「頬がヒリヒリする」
「じ、自業自得でしょ!?」
「悪かったよ。でもどうしても勝ちたくてさ。その気持ちが爆発したというか」
素直に頭を下げる。
多分、一番心配してくれたのは楓だ。
地上に落下しながら見た彼女の表情は酷く歪んでいたから。
それが悔しさからきたものか、悲しさからきたものか。はたまた怒りからきたものかは分からないが、頬の痛みから楓の気持ちが伝わってくる。
「べ、つに! 心、配、した、訳、じゃ!」
「わ、分かったから。そんなに興奮しないでくれ」
「秤さん。念のため、何処か打っていないか見せて貰えませんか? あの高度から落ちて無傷でいられるとは思えません」
焔もまた、真剣な表情で秤の身を案じてくれている。
ここは彼女の気持ちを汲んで甘えるべきだろう。
「よろし」
「必要無い」
誰かの声がその場の空気を断絶した。
無の極致とも言うべき存在感で気配を消していた少女――浮世華である。
「その、少し見るだけ」
「いらない」
今度は食い気味で確固たる主張をする華。
彼女は飛び級生徒。恐らく、この場に居る者の中では電家先生くらいしか面識がないはずだ。
それでも断固として譲らない姿勢を見せる華に、秤は少し感動していた。
昨日教室で話したときとは別人のようだ。
「ほ、焔。本当に平気だから」
「……まあ、良いですけどー」
少し拗ねた様子の焔を見て罪悪感が湧く。
一瞬にして気まずい空気になってしまったが、その発端となった華は何処吹く風といった様子。
どうにかして空気を変えなければと秤が焦っていると、
「天座君。ちょっと良いですか?」
「は、はい」
電家先生の助け船だ。
最初こそそう思ったが、言葉の続きを聞いて秤は怪訝な表情を浮かべた。
「ついさっき問題が発生したので、これから校長室にご同行願えますか」
「は? ついさっき……ですか?」
「えぇ。ついさっきです」
笑顔で繰り返し、電家先生はさっさと歩いて行ってしまった。
校長室の場所を知らない秤は慌てて皆に一礼してから後を追う。
「浮世さんも来るんですか?」
「えっ」
言われて後ろを振り向くと、そこには背後霊のようにピッタリと秤の後ろを歩く華の姿があった。
「パートナーだから」
「………………成る程」
電家先生は大きく目を見開いて秤と華を交互に見比べている。
辛うじて教師としての体裁は守っているものの、相当驚いているのが分かる。
やはり男女でコンビを組むというのは例外中の例外なのだろう。
「ところでさ。その風夢ってどうするんだ?」
校庭側のエントランスを前にして、秤は先程から我慢していた質問を華にぶつけた。
これに乗って校舎の中を移動するのは、いくら広大なアアル学院の校舎と言えど不便過ぎる。
性格的に華はそんなことを気にするタイプではなさそうだが、目立つことを避ける彼女が何の対処法も用意していないとは思えない。
「こうする」
そう言って風夢から降りた華は、マットレスの角にあるビンの蓋のようなものを回し始めた。
そして蓋が外れた瞬間、ダムの放水のように一気に大量の水が溢れ出す。
ただでさえ雨で湿っていた地面が瞬く間に水浸しになってしまった。
「ウォーターベッド……道理であの寝心地だよ」
「成る程。あれほどの衝撃を吸収したのもこれで納得がいきます。相変わらず、あなたは斬新なオプションを思いつきますね」
「それほどでも」
あっという間に水を出し切ったマットレスを、華は器用に折りたたんでいく。最終的には片手で持ち運べる大きさにまでなってしまった。
これほどコンパクトに収納できるのなら持ち運びには困らなそうだが、ウォーターベッドとして機能させるには水が必要不可欠。
つまり華は、初めから秤が風夢から落下する可能性を想定していたと言うことになる。
「あれ? そういえば元の……メインの風夢は?」
「この中」
『うむ。中々、よい水加減だったぞ』
脇に抱えたマットレスを華がパンパンと叩くと、またしても渋い声が聞こえてきた。
まさか風夢は水に強いのだろうか。
いくら耐水性だったとしても、長時間水に浸かっていたら壊れてしまいそうなものだが。
「良いですか? それでは向かいましょう」
電家先生の先導の下、秤達は一路校長室へと向かう。
道中、電家先生の後ろを歩いていた秤は強烈な嫌な予感に襲われていた。
いつもなら自由気ままな母親に振り回される前兆として諦めも付くが、ここはアアル島だ。
まさか校長が母親なんてことはないはず。
パートナーを得た喜びを上回る不安に、秤の胸の鼓動は速まるばかりだった。




