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天駆ける風夢  作者: 襟端俊一
第三章 FLYING
18/35

 三時間目が終わりを迎えると、秤は活生と共にグラウンドへと向かった。レースのときは教室に集まるようなことはせず、皆が一斉に集まるんだそうだ。

 グラウンドは昨日の雨のせいで最悪のコンディションだったが、この場に集まった生徒の誰一人としてそれを気にするものはいなかった。

 ここからはもう、飲食料を口にすることはおろかトイレに行くことも許されない。


「秤君!」


 元気に声を掛けてくれたのは楓だ。

 当然の如く傍には焔も控えている。


「当たっても恨みっこ無しよ」

「ああ、勿論、だ……?」

 楓と話しただけで女子がざわついた。


「楓ちゃん、女の子に人気ありますから気を付けて下さいね」


 焔が近寄ってきて耳元で囁いてくる。

 その理屈で言えば、男子に人気のある焔と話すのは大問題なのでは? という秤の不安は的中した。

 四方八方から向けられる恨みの視線が秤を串刺しにする。

 これでは共に夜を明かしたなんてことが知れたら命が危ない。


「あ、先生来ましたね。早速始まりますよ」

「え、もう?」


 いつの間に選ばれたのか、既に見慣れぬ顔の四人が開始位置に並んでいた。二百メートルと言っても直線距離なので、コーナリングを考慮した開始位置にはなっていない。

 明らかに背丈が違う組み合わせに思わず同情してしまう。


 次々と生徒が出走していくが、秤他、活生、楓の三人は一向に呼ばれない。

 嫌な予感がしていた。


「秤さんの意中の子は何処に居るんですか?」

「意中て……まあ間違ってはいないか。分からない、見てくれてると良いけど」

「え? 見てて、って頼まなかったんですか?」

「う、うん。そこまで頼める空気じゃなかったし」

 秤がそう答えると、焔は神妙な顔で言った。



「あの……それだと、仮に秤さんが勝っても、その子が認めなければいくらでも誤魔化しがきくのでは?」



「……、」

 考えていなかった。

 その可能性を全く想定していなかった。


 あれほど他者を寄せ付けない子だ。

 充分あり得る話である。

 秤が作った浮世華包囲網には、大きすぎる穴があった。例えそれが僅かな隙間だったとしても、あの子なら穴さえあれば瞬く間に抜け出してしまうだろう。


(何やってるんだ俺は!! これじゃ勝っても負けても……いや、レースに出る意味すらないじゃないか……っ)


 秤が悔しさを滲ませている間も生徒達は出走していく。

 ついには秤、活生、楓以外の全ての生徒がレースを終えてしまった。残っているのは楓のファンと焔くらいだ。

 一体これはどういう状況なのか。

 その謎はすぐに明かされることとなった。


「ここからは、私がスターターを担当します」

「ね、姉ちゃん?」


 唐突にスターターを申し出たのは、活生の姉にして競技担当の電家先生だ。


「活生。疾風さん。そして、天座秤君。今回は三人で走って貰います」

「……はい」


 電家先生は秤の事情を知らないはず。

 故にこの采配はただの気遣いに他ならない。

 アアル学院に来たばかりの秤の知り合いは、電家先生の知る限り楓と焔と活生のみ。

 その中で出場権を持つ二人に白羽の矢が立った訳だ。

 これが八百長レースだったら電家先生には感謝してもしきれないが、今回ばかりはありがた迷惑以外の何物でもない。


「なんか……ごめんな。姉ちゃんが余計なことしたみたいで」

「いや。俺のことを思ってやってくれたのは分かってるから気にするなよ。それよりも手加減だけはしないでくれ」

「それは勿論だ。疾風と当たったのなんて初めてだからな……正直、燃えてる」

 活生は少し興奮気味に、一番外のコースに立った。

 活性は自分の成績を中の下と評していたから、楓と当たるにはランダムに振り分けられる週一レースしかない。

 敵わないと分かっていても、男として燃えるものがあるのだろう。


「男同士の話し合い?」

「そんな感じ」

 楓は少し申し訳なさそうにしている。


「負けないからね」

「俺だって」


 秤も精一杯の虚勢で答える。

 その場に居る誰もがこの先の未来を予見しているかのように、このレースに注目していなかった。

 黄色い声援も熱視線も、全ては楓一人に向けられている。

 結果の分かったレースなんてどうでも良いのだ。

 その光景が――不快だった。


(負けられるか!!)


 楓が真ん中のコースに立ったのを見て、秤も内側のコースに立つ。

 これで準備は整った。


「よーい……」


 今までの流れに習って、『よーい』の合図で体重計に乗り空中に飛ぶ。

 後は空砲の音でスタートするだけだ。


「ケホケホッ」


「「「……」」」

「失礼。よーい……」

 三人は再び構えるが、


「あ、ちょっとすいません」


 電家先生は着信があった訳でもないのに突然携帯電話を取りだし、時間の確認だけしてすぐにまたしまった。

 何故このタイミングでする必要があるのか。

 ただの焦らし行為なのは明白だった。


「よーい……」

「……………………………………………………………………………………」


 永遠とも言うべき長い間が空く。

 堪りかねて電家先生の方を見ると、スタートのことなど忘れているかの如く余所見をしていた。

 

(く、くそ。何なんだよこれ。フェイントがあるとは聞いてたけど、こんなおちゃらけたスタートになるなんて流石に予想外過ぎる。も、もう駄目だ。あの子には見て貰えないし、楓とも当たるし、おまけに活生とまで。条件が悪すぎる……)


 一度は燃え盛った闘志も、度重なるフェイントによって鎮火してしまった。

 完全に心が折れた秤は、天を仰いでそのまま地上に下りようとした。

 しかし、体重計が地面に下りる寸前のことだった。


(……あ)


 空を見上げて、少し視線を移した先。

 校舎の屋上で人影を見た。

 風で髪がたなびいているものの、あのシルエットには見覚えがある。

 浮世華に、間違いなかった。

 そこからの秤は、スイッチが切り替わったかのように前を向いていた。


(楓のスタートダッシュは、様々な方向から集まった風が瞬間的に強く吹くイメージ……風に飛ばされるイメージ……)

 焔に教えて貰ったアドバイスを心の中で再び反芻する。


(……いや、駄目だ! いくら焔が体重調整を怠ったとしても、それだけで楓に勝てるほど甘くない。楓と同じことをしても敵わないに決まってる)


 根本的な実力が違うのだから、多少楓の調子が悪いことを差し引いたとしても秤の敗色は濃い。

 楓のスタートダッシュ、『突風ガスト』を真似たところで結果は見えている。


(要はイメージなんだ。滞空するのも前進するのも高度を上げるのも。全部イメージが重要だった。もっとないか? 身近にあってイメージしやすい、勢いよく吹っ飛ぶような、そんな何かが)


 藁にもすがる思いで辺りを見渡す。

 あまりにも遅いスタートのせいか、楓のみに注目していた観客が息を呑んでこのレースを見守っていた。

 秤もまた、一向に引き金を引こうとしない電家先生を見る。


 そこでイメージが固まった。


(『銃弾ブレット』!! 引き金を引いて……銃弾が飛び出すイメージ……)

 目盛り部分を抱きかかえて、万が一にも振り落とされないように準備を整える。

 既に活生には知られているが、とても観衆の前で見せられるような格好ではない。クスクスと笑い声も聞こえる。


『苦しいのぅ』


 相棒までこの有様である。

 秤は自分だけを信じて恥を捨てた。

 そして、目を瞑りながらたった一つの音だけを待つ。


(引き金を引いて……銃弾が飛び出すイメージ……。そのまま空気の壁を突き抜けて……目にも留まらぬ速さで……)



 パァン!! (空を駆けろ!!)



「ぎっ――」


 それはもう、乗り物としての速度ではなかった。

 本当に銃弾に人が乗っているような、生身の人間には到底耐えうることができない未知の領域。


 あまりの初速に秤の体は浮いてしまったが、何とか目盛りにしがみついて落とされないように踏ん張る。

 しばらくして目を開けたときには、とっくにゴールラインを通り越していた。


「勝った、けど! ここからだ!!」


 速度はガクンと落ちたが、それでもまだ視界に映る景色が電車に乗っているときのように通り過ぎていく。

 止まる気配は全く無い。

 前方には高等部の校舎が迫っている。

 激突して風夢ごとペチャンコになる自分を想像して、秤は歯を食いしばった。


「死んで、たまるかあああああああああああああああああああああああ!!」


 目盛り部分をこれまで以上に強く抱きかかえ、目一杯上体を反らす。

 すると激突する寸前、秤を乗せた風夢はほとんど直角に方向転換して空を昇った。

 激突死は避けることができたが、このまま昇り続けたら大気圏を突破してしまう。


「んぎぎぎぎ……っ」

『痛いのぅ』


 危険を感じ、すぐにまた上体を反らして方向転換を試みる。

 しかし今度は力を入れすぎたのか、秤の体は回し車で遊ぶハムスターのようにグルグルと空中を回ってしまう。

 それが致命的だった。


「―――」


 目を回した秤は、ほんの一瞬だけ意識を失いかけた。

 たったそれだけで風夢が力を失ってしまったのだ。

 秤にできることは、ただひたすら風夢にしがみつくことだけだった。


(格好悪ぃ……結局、焔の言った通りだったじゃないか……)


 落下中に目にしたのは、風夢に乗ってこちらに近付いてくる楓の姿。

 その少し後ろには電家先生と活生、それに焔の姿も見える。

 皆思い思いの表情をしているが、その目的は一目瞭然だ。

 拙い技術でスタートダッシュを試みた秤を、どうにか助けようとしてくれている。完全に秤の自業自得だというのに。

 だが。


(間に合わない――)


 そう悟った秤は、静かに目を閉じて人生の幕引きを覚悟した。



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