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「せっかく体重元に戻ったのに……」
「女の子に吐くところを見られた……死のう……」
「あ、あんたが悪いんだからね! 変なもの見せるから!」
楓は並べられた料理に目もくれず文句を言い続けていた。
さすがに秤の嘔吐を見た直後では食欲が湧かないのか、全く箸が進んでいない。これらも焔が作った物なのだが、秤のラーメンと違って実に健康に良さそうなメニューだ。
「蹴る前に、普通に注意するという選択肢はなかったんですかね」
再び用意されたラーメンをツルツルと啜りながら不安を口にする秤。
元はと言えばタオル一丁で楓の前に飛び出した秤が悪いのだが、蹴りを入れた上にかかと落としまでする必要が果たしてあったのだろうか。
「焔、ごめんな。せっかく体重戻してくれたのに」
「いえいえ。全部が全部流れちゃった訳じゃないですから。それでも、後二杯は食べて貰いますよ?」
「吐いたとはいえ後二杯か……。あ、そういえば。あれだけ食べたのにあんまり太ってなかったのは何で? ラーメン二杯なら経験あるんだけど、そのときは1㎏以上増えてたぞ」
「それは麺のせいね。あの麺、コンニャクだから」
「馬鹿な!?」
こう見えて、秤は麺類にはうるさい。
特にラーメンは好きで、一日一食は食べていた。
当然ダイエット食品系のラーメンも口にしたことがある。
だがあれは舌触りからのどごしまで、お世辞にもラーメンとは言いがたいものだった。
ラーメンのスープに細長い食べ物を入れただけ、というのが素直な感想だ。
「普通の麺だったけど……?」
「その麺、最近開発された新商品でね。あたし達も驚いたんだけど、体重調整に最適だから女の子に大人気なのよ」
「そ、そうなんだ。恐るべしアアル島……」
コンニャクは消化に良い気がしないでもないが、秤は敢えて聞かなかった。濃厚な豚骨スープが消化に悪いのは間違いないはずだ。
その後、秤は何とか神秘のコンニャクとんこつラーメンを食べ終えた。
焔が楓の口に無理矢理料理を運んでる間に渡された布団を玄関口に敷いて、ようやく寝る準備が整う。
恐ろしく長い一日だったが、明日のレースは今日やり残した宿題のようなものだ。そういう意味で、まだ今日という日は終わっていないとも言える。
「体重は焔に任せておけば大丈夫そうかな。明日の朝ご飯で最終調整するって言ってたし」
まだ理想体重に近付いた恩恵というのを実感できていないので、いまいち達成感が湧かない。秤の拙い風夢捌きでも影響があるのかと心配になる。
劇的に性能が変わるという話も、あくまで持ち主が普通に風夢を乗りこなせることが前提だとしたら、秤には何の効果も期待できない訳で。
「……やっぱりもう少し練習しようかな」
「駄目です」
「っ」
力強い焔の声に思わず身を強張らせる。
「あ、あれ。楓は?」
「今お風呂に入ってます。それより……駄目ですよ、練習なんてしたら。この時間に下手に体を動かすと私の計算が狂ってしまいます」
「でも不安でさ。勝てるかどうかって考えたら」
「元々勝ち目なんて無いですし、気楽に行きまっしょい!」
「今更それはないだろ!!」
秤は涙ながらに訴えた。
勝ち目が薄いことなど百も承知だが、頑張った後にそんなことを言われては心が折れる。
「冗談です。気楽に、の部分は」
「……勝ち目なんて無いか」
「はい。今のままでは」
「何だよそれ。まるで勝つ方法があるみたいじゃないか」
焔の意味深な発言は決して聞き逃せるものじゃなかった。勝つ方法があるなら、無理な体重調整などやる必要が無かったからだ。
「勘違いしないで下さいね。秤さんの体重が理想体重に近付いた、という前提があっての話ですから。それに、確実に勝つ方法なんて最初からありません。あくまでこのまま明日のレースに臨むよりは勝率が上がるというだけです」
「どんな方法なんだ?」
「フライング覚悟でスタートダッシュを決めましょう」
「え、それだけ?」
短距離はスタートダッシュが命と活生から聞いていたので、焔が口にしたアドバイスに勝つための秘訣があるとは思えなかった。
「スタートダッシュのやり方、分かりますか?」
「分からないし知らない。そういえば、楓はスタートダッシュが大切だって分かってるはずなのに教えてくれなかったな」
「危ないからです。スタートダッシュの練習は中学に入ってから始まるんです。しかも必ず先生の指導の下で行わないといけません。それくらい危ないテクニックなんです」
「……勢い余って落っこちる危険があるからか」
秤は、進むだけの練習で度々落下していた自分を思い出した。
「それもありますが、一番危ないのは止まれない場合です。慣れている人なら仮に力加減を間違えても、勢いを殺すのはそれほど難しいことじゃないんですけどね」
「俺の場合、スタートダッシュが決まっても上手く止まれないから大事故に繫がる恐れがある。だから楓も話さなかった?」
焔は重々しく頷いた。
楓の心遣いは有り難いが、勝率を1%でも上げるためなら危険を冒す価値はある。
それに、二人が危惧するようなことにはならないとも思えた。
いくらスタートダッシュが危険なのだとしても、やり方を教えて貰ったばかりの秤がそんなスピードを出せるはずもない。
「いいよ。構わないから教えてくれ」
「本当に良いんですか? 危険なのは今言った通りですよ」
「平気だって。今教えてもらっても、いきなり明日のレースでそんな危険なスタートダッシュができる訳ないよ。むしろ中途半端なスタートダッシュになって丁度良いんじゃないか?」
「分かってませんね」
ふぅ、と溜息を吐いて焔は続ける。
「秤さんは今日一日で風夢に乗れるようになった。これがどれだけ凄いことか分かりますか? 本来なら、幼等部の頃から少しずつ基礎を学んで身に付けていくものなのに」
「そう、なのか?」
風夢に乗れるのが当たり前のアアル島住人から、まさかそんなことを言われるとは夢にも思わなかったので、焔の言葉が信じられなかった。
だが言われてみれば、別に小学生より高校生の方が目に見えて覚えが良いなんてことはないのだから、秤の上達スピードは普通ではないのかもしれない。
「むしろ才能が無いと思ってたんだけど」
「とんでもありません。特に、瞬間的に風夢の性能を引き出す力は異常と言ってもいいくらいです。さっき女子寮の門を飛び越えたのを見て分かりました」
「瞬間的な力か。だから俺がスタートダッシュを覚えると危険って言ってるんだな」
「冗談抜きで、死んじゃうかもしれませんよ」
いつになく心配そうな表情を浮かべて秤の身を案じてくる焔。
「それでも良い。いや、良くはないけど。教えてくれ。できる限りのことを全力でやらないと、多分あの子には伝わらない」
「……分かりました。単純ですから、すぐ頭にたたき込んで下さいね」
そう言って、焔は渋々ながらもスタートダッシュのコツを伝授してくれた。
女子寮に招いてまで世話を焼いてくれる二人には、これから先もきっと頭が上がらない。
秤はそんなことを思いながら明日に備えて就寝したのだった。




