俺を疲れさせる、臆病な、見どころのある奴。
結果だけを見れば、ロメは実に慧眼であったと言わざるを得まい。彼女と黄昏の民が野営地を発ったのは昼過ぎのことであったが、それから三刻も経たないうちに、見慣れない鳥が大天幕に飛び込んで来たのだ。夕闇に紛れるような黒い翼は、天幕の上部に張った綱に留まってピロロとけたたましく鳴いた。瞬間、レミアスは書類の積まれた卓から弾かれたように立ち上がり、頭を抱えて恨み言を口にした。
「ああ!ままならん、実にままならんな!」
荒々しいレミアスの声に、客間代わりにあてがわれた仕切りからセテが飛んで来る。
「この耳障りな鳴き声は?」
「救助要請だ。しかも、三段階あるうちで最も緊急度が高い。セテ君、どうやら君の予想が現実になっているらしい。」
はっ、とセテの顔に緊張が走る。
「ロメを。」
言いかけたセテに、レミアスが首を振る。
「今から引き返しても、到底間に合わん。俺たちで何とかするしかない。なあ、聞いているんだろう…ヴェンノール。」
「…お見通しってか。」
声を追うように、セテが出てきた仕切りの裏から、ぬっと大柄な体が姿を現した。
「お前とは、長くはないが、古い付き合いだからな。いつも聞き耳を立てているのは知っている。それで、どうだ。ロメの真似事はできそうか?」
ヴェンノールは苦笑して、首を横に振った。
「無茶を言ってくれる。あんな化け物の真似事なんて、俺には到底できんよ。敵陣半ばで力尽きるのが目に見えている。」
肩をすくめたヴェンノールに、しかしレミアスは微笑んで言った。
「敵陣半ばまでは行けると思っているんだな。」
「まあ、また内通者が手引きしてくれれば、罠には掛からんだろうぜ。」
ほう、とレミアスが眉を上げた。
「内通者か、とんと覚えが無いが。」
「とぼけたって無駄だぜ、松明を斜めに上下させている奴がいただろう。あれなら、敵本陣からは真っすぐ上下している他の奴と見分けが付かないからな。よく考えたもんだ。」
ふむ、松明の合図については、ロメを含め数人にしか共有していない機密事項である。それを一度駆けただけで見極めているとは、相変わらず良い目をしている。
紫の風来坊。どこの所属かは知らないが、実に諜報員らしい男だ。
「ヴェンノール、お前に頼みたいことがある。」
レミアスはそう言って、ヴェンノールの肩を叩いた。
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白の森の南部、旧王国軍の陣営はにわかに騒がしくなった。日没後の暗い中を、伝令や配給を担う少年少女が駆け回り、地竜たちが広場に引き出されてくる。
「全員乗ったな。」
地竜に跨った三十人ほどの戦士が、緊張した面持ちで頷いた。彼らの先頭で振り返っているのは、調律の英雄レミアス。久しぶりに前線に戻って来たのだ。
「訳有って、剣聖は不在だ。代役など務まるとは思えんが、俺は俺のやり方で敵陣突破を成し遂げてみせよう。」
「旦那ぁ、そりゃあ謙遜ってもんですぜ!」
げらげらと、五人長達が笑う。彼ら自身、ロメに従う前はレミアスが調練した生え抜きであるのだ。
「行くぞ!王女の消息を掴み、反攻の狼煙を上げるのだ!」
叫び終わるなりレミアスが先頭を駆けると、騎乗した兵たちもまた後を追った。白の森の木々を抜け、前方に連合軍の大陣営が煌々と火を焚いている。その東側、右手を回り込むように駆けると、夜襲に気づいた敵陣から、例のごとく足止めの兵が湧き出てくる。
「止まれ!」
「え?」
その声は、先頭を駆けていたレミアスから発されたものであった。慌てて手綱を引いて、急襲を仕掛けたはずの地竜たちが足を止める。
「だ、旦那、こんなところで止まっていたら、囲まれちまいます。」
「そうだな。」
「そうだなって…」
まごまごしている兵たちを尻目に、レミアスは敵陣へと並足で近寄り、自身を狙って飛来した矢を切って落とした。どよめく敵陣を前に、朗々と名乗りを上げる。
「俺はレミアス。王国軍の総司令にして、大水晶を護るものだ。どうも、そちらの陣にも見どころがある奴がいるらしい。そうでなければ、俺はこんなところに引きずり出されてはいない。誰だ、俺を疲れさせている奴は。」
包囲網は静まり返り、その動きを止めている。ギシ、と身じろぎをした兵から鎧の軋む音が聞こえた。数拍もじっとしていると、いくつかの松明が、ごく小さく揺れた。それはレミアスの頭の中で一点に収束し、指揮官の動きを浮かび上がらせる。
「なんだ、名乗り出ることもしないのか。臆病者め。」
そう言ってレミアスは剣を高く掲げると、駆けてきたままの方向を指して隊を駆けさせようとした。
その時。ふっ、と周囲が闇に包まれた。
敵陣に掲げられていた松明が、消されたのだ。これでは、敵も味方も判らない。闇の中で、乱戦が始まってしまう。
「旦那、こりゃぁ。」
「ああ、内通者潰しだ。それに、兵力で上回っているときの戦い方というものを、良く判っている。この夜襲を確実に潰したいなら、こちらの人数と同じだけ犠牲を出す覚悟を持つのが一番早い。」
レミアスは小さく口笛を吹くと、笑みを交えて呟いた。
「本当に、見どころのある奴だ。」
静寂に包まれた中で、敵味方の目が星明かりに慣れてきたとき。
「着火。」
レミアスの無機質な声が響いた。直後、騎手たちの半数が手元で火水晶を活性化させ、残る半数が構えた弓にそれを近づけた。矢の先に着いた布に火が燃え移ると、レミアスに倣って、全員の狙いが一点、先ほど指揮官が居ると当たりを付けた場所に向く。
「放て。」
一斉に放たれた火の球は、包囲の一か所だけを昼間のように明るく照らし出した。周囲に張った罠用の網に火が燃え移り、それを消そうと、兵たちが慌てて武装を投げ捨てる。
その中央で、声を張り上げている男が一人。
「見つけた。」
レミアスは猛然と地竜を走らせると、遮る兵を蹴散らしながら燃え盛っている場所へと突進した。
「ま、守れ!私を、守れぇ!」
情けない声を上げた男の顔が見える位置まで来ると、レミアスは彼の前に壁を作った兵越しに彼に呼びかけた。
「なんだ、俺より若いくらいじゃないか。その年で相手の名乗りを受け流していてどうする。どうやら貴殿は、小さく収まり過ぎているようだ。」
闇の中で、将同士が居る一点だけが明るい。それに引き寄せられるように兵たちが集まり、いつしかレミアスの前には分厚い人間の壁が出来上がっていた。
「ふむ、これを突破するのは無理のようだ。喜べ、貴殿は望み通り助かったぞ。では、さらばだ。」
レミアスはそう言うと、手薄になった別の方角の包囲を鮮やかに打ち破り、南を指して駆け去ってしまった。
「調律の英雄レミアス…覚えたぞ!その顔、確かに覚えたぞ…!」
いつか、目に物見せてやる。
残された敵将――シェマーニは、ギリリと歯を鳴らして平手を腿に打ち付け、その背に負け惜しみを叫ぶことしかできなかった。




