朝は井戸端、昼は屋台。
その川は長らく王国領と商業都市領との境界であった。だから川の両岸、橋と陸とが接続する箇所には、それぞれ大きな門が備え付けられていて、通行人たちの身分を検める機能が設けられている。
橋には、名前が無い。このあたりで橋と言えば、この橋以外を指すことが無いからだ。急流を分かつように水底からそびえたつ柱は、両側を合わせてニ十本もある。その一本一本がこのあたりには見られないほどの巨木の幹で、その運搬過程なども含めれば完成までに一体どれだけの人足が関わったものか想像も付かない。門の扉部分は体三つ分ほどの高さだが、その上にあしらわれた装飾を含めれば、優に体五つ分はある。
「門は、開いてるな。」
日没を一刻後に控えた陽光が、容赦なく橋の向こうから照り付けてくる。門自体で作られた影に移動したイルアンは、ようやく周囲の様子を観察する余裕を得た。
「ああ、開いてる。」
背嚢から目だけを覗かせて、ティックが覚えたての言葉で短く答えた。山頂で目覚めて以来、イルアンはティックに少しずつ第十二大陸言語を教え込んでいる。もちろんリアネスのように突然ペラペラと喋り出すとは行かないが、元々共通の単語も多いような親戚言語である。文法的な細かい違いなどに目を瞑れば、簡単な会話はすぐに成り立つようになった。ちなみに言語習得の速度はかつてのイルアンやセテと同等であったが、「さすがは大精霊」と褒めそやすとティックの機嫌が良くなるから、事あるたびにそうしている。
「向こうの方からの通行人も出てきているね。噂通り、検問は廃止されているみたいだ。」
橋の横幅はニ十歩ほどもあるが、衛兵は中央と両端の計三人しかいない。時折左右を気にする素振りを見せているものの、通行人全ての身分を検めているようには見えなかった――交通量は、それなりに多い。
「セテは、もう通り抜けてるかな。」
一人旅での野宿とは、事実上、眠らないことを意味するから、三日以上の強行軍は体力的に不可能である。したがってイルアンは日が高いうちに集落に入って宿の交渉をするという旅路を送っていたのだが…もし待ち合わせ相手の三人娘がそのような事はお構いなしに先を急いでいたら?あるいは三日も前に、彼女達はここを通り抜けてしまっている。
「さて、と。まずは酒場だな。」
逸る気持ちを抑えつつ、踵を返す。背嚢の中で向きを変えるような音がして、小動物の意外そうな声が上がった。
「あっちに渡るんでないのかい?まだ日没まで時間もあるし、簡単に通れそうだぜ。」
イルアンはティックの言葉に頷いたものの、念のためだよ、と前置いて続けた。
「もしも橋を渡れなかった時に、こちら側でも落ち合う場所を決めてあるんだ。朝は井戸端、昼は屋台、そして、夕方以降は酒場。おそらく、セテ達はもう向こう岸に渡っていると思うけれど、短期間で橋を往復するような目立つ動きは避けないとね。」
扉を開くと、カランと軽い鈴の音が店内に響いた。ここが、一番橋から近い酒場だ。広い店内は空席だらけで、まだ数えるほどしか客は入っていない。店の奥に分け入って飲み物を頼み、それが出来上がるまでの時間でさりげなく店内を見渡した。すると、
「旦那、あれ。」
ティックが呟きと共に床へと飛び降りた。そのままタタタと板張りを走って、一番奥に腰かけた頭巾の足元で静止する。悪戯な表情で目配せをしてきたのに頷くと、ティックはそのまま頭巾の上へと飛び乗って、つるりとそれを剝いでしまった。覗いたのは、短い金髪。変装を解かれた少女は目を丸くして固まっていたが、やがて破顔してティックを抱きしめた。
「無事に目が覚めたのね、お寝坊さん。」
「おう、心配かけたみたいだな。」
後ろから近づいて、懐かしい背中に声を掛ける。
「セテ。」
ゆっくりと振り返った少女と目があった。それを合図に、二人はどちらからともなく右手を握り合い、がしりと互いを引き寄せ合った。
「良かった、会えた。もう先に進んでしまったかと思っていた。」
「それはこっちの台詞だよ。まさか、まだ川を渡っていなかったなんて。リアネスとネリネは、今どこに?」
「近くに宿を取っているのだけれど、ああ、どこから話しましょうか。ちょっと今は動けないのよ。」
そう言ってセテは、ここまでの顛末をイルアンに話して聞かせた。




