契約と信頼
移設中の簡易なものとは言え、先代の剣聖たちを祀る廟で唾を飛ばす訳には行かない。瞑想中にもかかわらず、急に鼻の奥にむずがゆさを感じた女は、
「へっく」
妙な声と共に、意志の力でくしゃみをねじ伏せた。そうだ、この程度、数々の難敵を打ち払ってきた私には容易いこと。
「やっぱりここだったか。」
「おっ、まっくしゅん!」
ああ、不覚。鼻奥に意識を集中しているときに、背後から声を掛けるとは、なんと卑劣な。怒気を込めた目で振り返ると、そこには背の高い茶髪の男が立っていた。
「恨みますよ、レミアス。先代たちの前で私に鼻水を垂らさせるとは。」
茶髪の男はロメの言葉に微笑みながら、廟の奥に突き立てられた剣に向かって恭しく頭を下げた。
「お前たちが見飽きているロメの鼻水を、また墓前に供えてしまった。許せ、ウィーメイズ、ヨーステン。」
ロメが赤面して、レミアスの背中を小突く。
「まったく、何年前の話をしているのですか。」
二人の剣聖がロメを代わる代わる修練相手にしていたのは、もう五年以上も前のことだ。ロメも我流ながらそれなりに腕に覚えがあったのだが、その自信は見事に打ち砕かれた。打ち据えられ続けること一年。ようやく二人の太刀筋が見え始めたと思ったところで、厄災は永遠に師事の機会を奪って行った。
「それで、調律の英雄にして最高司令たるレミアスどのが、一介の剣士に何の御用でしょうか。」
多分に親しみと皮肉が混じったロメの声に、レミアスはさも驚いたような顔を見せる。実に白々しい。
「用が無かったら、話しかけてはいけないかな?」
「そう言って、用が無かった試しがありましたっけ?」
じっと見つめていると、年長の英雄は自らの頭頂部に右手をやって、髪を引っ張り上げてみせた。それは彼が居心地の悪さを感じている時に見せる仕草だったから、ロメは内心で密かにほくそ笑んだ。さあ、今度はどんな話を持ってきたのか。レミアスは不満そうに頷くと、ロメを立たせて廟の出口へと誘った。
「最近、白の森で雨が降らない日があっただろう?」
「ええ。数日も続くのは珍しいなとは思っていました。」
廟から出ると、都市を囲う隔壁の向こうに薄く霧が掛かった白の森が広がっている。ここでは、ほぼ毎日、夜に優しく弱い雨が降る。昨夜は久しぶりにその日課が復活したものの、それまでの数日間は雨が降らず、不安を口にする者も多かったのだ。
「大陸の北端にある港町エンバドで、大規模な風魔法が使われた形跡があると報告があった。そして、とある人物を追っていた男達は、口々に白髪の魔女に返り討ちにあったと言っているそうだ。」
ロメは目を大きく見開いて、肩をいからせた。
「ウィルロ様…やはり、生きて。」
レミアスはじっとロメを見据えると、努めて静かに言った。
「判らない。実は、こんな噂話は今までも何度かあって、その度に調査させてはいたんだが、今のところ空振りばかりだった。」
「…そうだったのですね。確かに、私はいかに儚い希望であっても、それを聞けば飛びだしてしまったやもとは思いますが。」
かつて近衛軍の戦士だったロメは、三都市連合の襲撃の中で王女ウィルロを護り切れず、やがて敵が王女の首級を上げたと喧伝したのを受けて滝壺へと身を投げようとしていた。そのロメに王女生存の希望を掴ませて思いとどまらせたのがレミアスで、現在は配下に加わる形となっている。ただし、主君の所在が判った場合は直ちに出奔して彼女の補佐に戻って良いという契約付きだ。
そのロメに、遂にレミアスが王女の噂話を漏らした。ということは、
「今回の噂は、これまでと違う。そうですね?」
レミアスはその問いに直接答えず、懐から一通の書状を取り出してロメに渡した。
「読んでくれ。」
結び目の特徴から、それが王国の諜報組織『水鏡』の連絡に使われるものであると判る。唾を飲んで頷くと、ロメは紐をほどいて上から文字を辿りだした。
三都市連合の諜報員たちが、北の大陸へと妙な指示を送っていた
この第十二大陸へ、とある少女が渡るのを阻止しようとしていたようだ
奴らは失敗し、少女は無事に連絡船へと乗り込んでいる
三都市連合の資金源調査は中断、かの少女を保護し、私のところへ導け
なお連絡船が到着しなかった場合は、速やかに元の任務へ戻ること
私の可愛い子猫へ、陽炎の長より。
最後の一文を読み終えて、ロメがはっとしたように顔を上げた。
「子猫…ネリネのことですね。」
「ああ。」
水鏡の性質上、レミアスもロメも組織の全貌は把握できていない。が、ネリネは長く行動を共にしたこともあり、彼らの中での通り名くらいは把握できている。
「ネリネはヨルマーの居場所を確認するために、王都に向かって案内人と接触を図るだろう。そして、あの老婆がこの地より更に奥、黒の森に居ることを知らされる。だが、王都からの道は三都市連合の軍が塞いでしまって久しい。果たして、その少女は無事にたどり着けるだろうか。」
レミアスの意図を察したロメは、目を爛と光らせて腰の剣に手を掛けた。
「陽動作戦、ですか?少女一人を招きいれるために。」
「ウィルロの消息を掴むために、だ。北東部を巡回している諜報員は他にもいるだろうに、老ヨルマーは一番のお気に入りをその少女の護衛に付けた。これだけでも異例なことだが、大規模な風魔法の反応と目撃の噂まである。どうだ、あのお転婆王女が、妙な連中を見つけて引っかき回しているのが目に浮かんでこないか。」
レミアスの言葉を、ロメは半ば呆然と聞き流していた。やがて沈黙が訪れると、焦点の合わない目で、ぼそりと呟いた。
「エンバドか。」
今にも飛び出していきそうな、もどかしさを前面に押し出した表情。まあ、こうなると思ったから、これまでの噂は聞かせなかったのだ。レミアスは自らの頭頂部の髪をぐいぐいと引いて、諭すように言った。
「ここまで言っておいて悪いが、まだ噂の域を出ていない。まずは、彼らを白の森へ引き入れて、話を聞くところからだ。」
「私が王都まで駆けて、そこで真偽を確かめれば。」
「単騎で敵陣を抜けることも、君ならばあるいは可能だろう。だが、その後は王都側も含めて警戒が高まる。ネリネたちが敵陣を抜けるのを難しくするのは避けたい。」
レミアスは強い光をその茶色い瞳に湛えて、真っすぐに王都の方を見つめた。調律の英雄。それは、彼が個々の利害や感情を偏りなく把握し、悪手を避けることから与えられた二つ名だった。
「…わかりました。」
王女ウィルロへの忠誠は揺るがない。だが同時に、ロメはこの若き指導者を深く信頼していた。出奔の自由は約束されているから、強く言えばレミアスは引き止めはしないだろう。しかし、彼の賛同を得ず王女の元へ馳せ参じたとき、そのこと自体が王女や王国の不利益に繋がったら。きっと自分は後悔してしまう。
「今日も、空が白いな。」
森の木々から発せられた霧は二人のいる都市を丸ごと包み込む。難攻不落。レミアスとロメの働きもあり、白の森は急速に要害としての名声を高めていた。




